流転1



井上聞多には生涯の友と誓った男が二人いる。
一人は長州藩下級武士の出身、のちの総理大臣である伊藤博文。もう一人は、その当時、「長州の天才」と謳われた高杉晋作である。
聞多は、この二人と出会った時のことをよく覚えていない。いつ、どんな時にこの二人と親交を深めたのか、
共に死のうと決めたのか、聞多はまったく覚えていなかった。ただ、気がつけばいつも二人は傍にいて、このまま
三人で人生を歩んでいくのだと、若き頃の聞多は漠然とそう考えていた。しかし、はたと過去を振り返ってみると、
一人は天へと旅立ち、一人は何やら遠くの方へ行ってしまったようだった。聞多は、いや、馨は、「はて、どこで別れたかな」
などと、とりとめもないことを考えつつ、仕事の手だけは休めなかった。東京の空は、からりとした晴天である。





俊輔はその日、江戸の町を奔走していた。桂小五郎に頼みごとをされ、方々を走り回った挙句、途中雨に降られたため
袴も草履も雨水で泥だらけになり、ついには目の前も見えないほどの大雨・落雷・暴風に走ることもままならなくなり、
やっとの思いで藩邸に着いた頃には、まるでどぶねずみのような、見るも無残な姿に成り果てていた。
俊輔は着物の中に大切に抱え込んだ、桂ご所望の「江戸でしか買うことのできない難しい本」をそっと取り出し、拳で泥を拭った。
拭いても拭いても表紙についた汚れは伸びるばかりで取れる気配もない。僕なら気にせんけどな。ぼうっとそんなことを考えて、
俊輔は軒下に座り込んだ。この汚れだ、藩邸内に入るのは、失礼というものだろう。
本が汚くなった。桂さんは嫌がるじゃろうか。俊輔はずぶ濡れのまま、途方に暮れて息を吐いた。釣銭はちゃっかり、袖口に入れてある。
髪の毛から水が滴り落ち、履き古した袴も草履も、俊輔本人から見てもみすぼらしい程に汚れていた。
こんな汚い格好を、桂さんはしたことがあるんじゃろうか。
俊輔が長州にいた頃は、今よりももっとボロボロの着物を着ていたし、奉公先での扱いもひどかった。
それを考えれば、今の境遇は恵まれている方だろう。俊輔が濡れたまま膝を抱え、震えていると、「おい」と、上から太い声がした。
見上げると、えらの張った四角い顔がそこにある。確か、志道聞多とかいう…。俊輔が慌てて立ち上がると、聞多という
風変わりな名を持った男は、俊輔を見て一笑した。
「なんじゃ、えらく濡れちょるなぁ」
自分と違い、上質そうな濃い青色の着物を着た聞多を見て、俊輔は俯いた。
「ええ、あの、ちょっと、桂様に使いを頼まれたもんで…」
「へえ」
聞多は俊輔の話にはまったく耳を貸さず、ずいと近寄り「それはそうと、伊藤」と言い、ずぶ濡れの肩を抱いた。驚くのは、俊輔の方である。
「志道様」
「なんじゃ」
俊輔は言いにくそうに口を噤む。対して聞多は、きょとんとした顔をし、俊輔に目を向けた。
「私は、そのう、そこいら中を走り回って来たので、えらく濡れておりますし、それに、泥だらけです。志道様も汚れてしまいますが」
「ああ、そうか」
聞多はそう言って、はは、と軽く笑い、「それでのう、伊藤」と構わずに話し続けた。俊輔は狼狽する。
既に、聞多の着物は濡れ、袴には俊輔が付けてきた泥がこびりついている。しかし、聞多は気にする風でもない。
「お前、女が何より好きじゃそうじゃな」
「え?」
「江戸の女はもう抱いたか」
「いえ、その、まだです」
俊輔が答えると、聞多は「まだか!」と言って高らかに笑った。笑うと、大きな口から鋭い犬歯が見えた。
「ならば、今から女を抱きに行こう。桂さんは今おらんし、皆何かと議論ばかりでつまらんのじゃ」
「いえ、でも」
「何か用事か」
「いや…」
金が。と、俊輔は言い、赤くなった。金がなくて、行けないと。そんなことを言う自分に、恥ずかしさを感じながら。
「そんなもん、俺が出す」
どうせ、藩の金じゃ。聞多がこの日何度目かの大笑いをしたのを見て、俊輔はやはり、育ちのいい人は気持ちも大きいのだと思った。
もし自分なら。こうして、今までさしたる交流もなかったような男を、わざわざ誘ったりするだろうか。
「さあ、行こう」
せっかちに背を突く手に気おされつつ、二人は門外へと出、町中を歩いた。雨は上がり、曇天の隙間から太陽の細い光が差し込んでいる。
遊里へ行く途中、何人もの人が二人の格好を見て密かに笑っていた。あ、と、俊輔は思う。俊輔も聞多も、着物は濡れ、泥だらけであったのだ。
「志道様、やはり、引き返した方が」
辺りを見渡しながら小さな声で言う俊輔に、聞多は「ふむ」と少し考え、自身と俊輔の格好を一通り眺めた後、
「着物か」
と、納得したような声を出した。
「私は帰ります。このなりじゃあ、とても上がれませんし、金もない」
俊輔は、ちらりと聞多を見る。ここで、打算が働いた。志道聞多という男の評判はといえば、身分は高く育ちもいいのだが大の女好きで、
一度怒ると手をつけられない程の癇癪持ち、というものでしかなかったので、意外な羽振りの良さや無頓着さを発見し、俊輔は嬉しくなった。
同じ武士でも、桂小五郎や久坂より、何か自分と近いものを感じたのだ。しかし一方で、育ちの良さゆえの金に対する執着のなさに、
俊輔はやはり、良家の武士なのだなと思いつつ、この男なら着物すら安いものだと買ってしまうだろうと考えた。
気前が良く、大雑把で、せっかちなこの男の性質を見抜き、俊輔は即座に頭を働かせた。
案の定、俊輔の思惑通りになったのだが。
「二人分、買って来る」
事もなげに言う聞多に、俊輔はわざと、「え!」と声を上げて驚いたふりをした。
「その代わり、伊藤」
反物屋へと向かい、歩き出した聞多は、俊輔に背を向けたまま、声をかけた。
「お前が抱いた女が俺の選んだのよりいい女じゃったら、その女も俺によこせ」
はあ、と、呆気に取られた声を出す俊輔に、聞多は振り向きざま、
「お前は噂通り、頭が回るのう」
と言い、にやりと笑った。俊輔はかあっと頭に血が上り、そのまま動けなくなってしまった。気づかれていた、自分の、打算を。
それでも大らかに笑い、女のことしか考えていないのだという風を装う聞多に舌を巻き、実は恐ろしい人なのかもしれないと
身震いしつつ、俊輔はどこかで、聞多に羨ましさを感じ、そして好きだと思った。
悠々と着物の入った風呂敷を抱え、「はよう着替えて遊里へ行くぞ」と、またしても俊輔をせかす聞多を、俊輔はまぶしいものでも見る
かのように目を細めた。そうしてぴかぴかの着物に着替えた二人は、女の柔らかな肌に抱かれる為に、全速力で遊里へ走ったのだった。

 


流転2