流転2
高杉晋作という男の話は、ちらほら耳にしていた。それはどれも、あまりいい噂ではなかったが、すっかり日々の暮らしに退屈
していた聞多にとって、ただ議論に熱中するだけの連中より、過激な思想と突飛な行動で、江戸長州藩邸の問題児になっている
晋作は、多いに興味をそそられる相手だったのだ。聞多は生まれつきの愛嬌と少しの軽薄さでもって、その日初めて晋作に近づいた。
「俺はなぁ、仕事がしたいんじゃ」
二人の前には酒瓶が何本も転がり、座敷はむっとした酒の匂いで充満している。聞多はすっかり酔いの回った晋作を見ながら、
「話し合いばかりしとっても、何も変わらんし何も始まらん」
とにやにやしながらそう言った。「ああ」と、首筋を赤く染めた晋作は、無愛想に相槌を打つ。
「今、僕が考えちょるのは…」
晋作はふらふらと立ち上がり、聞多に向けてそう言ったが、一旦、黙り込んだ。気の短い聞多は「考えちょるのは?」と先を促す。
「久坂らは反対しちょる。志道、お前はどうじゃ」
晋作は聞多を見下ろしながら、自身の考えをぶつけた。黒船が来航して以来、井伊直弼によるアメリカとの条約締結、志士達への弾圧により松陰は死に、
最近では薩摩藩士による生麦事件も起こり、世情は混乱しきっている。何かをしたいのは、晋作も同じことであり、考えがひらめく度に
桂や久坂、他の同志達に話をしたが、「時期尚早だ」だとか「お前の考えは飛躍しすぎている」と反対され、行動を起こすことができない。
晋作は酒に浮かされているせいもあってか、熱っぽく、聞多に向かって話を続けた。
晋作の長い話が終わると、聞多は手の中の酒をぐいと飲み、
「よし、やろう」
と、からりと笑った。驚くのは、晋作の方である。今まで誰も賛成してくれなかった案に、聞多はたった一度聞いただけで
即座に「やろう」と答えたのだ。晋作は幾分酔いが冷めたのか、険しい顔をして「本気か」と言った。
「本気も何も、やろうと言ったのは高杉、お前じゃ」
沈黙する晋作の目の前に、聞多は猪口を差し出した。
「俺はいい仕事をする。約束する」
自信に満ちた笑みを浮かべる聞多から猪口を奪い、晋作は一気に飲み干した。
勢いよく煽ったので、唇の端から酒がこぼれ、透明な雫が顎へと伝う。
「志道、お前、度胸がいい」
晋作が言うと、聞多は笑って、
「ただ仕事がしたいだけじゃ。人を斬ったこともなし、剣も苦手じゃが、俺は、やるぞ」
「自信家じゃな」
「面白いことと女が何よりも好きなんじゃ。その為ならいい仕事をするし、命だってかける」
言い切る聞多のぎらりと光った眼差しを見て、晋作はふ、と、小さく笑った。おもしろい。
「僕も面白いことと女が好きじゃ。いいか、志道」
「聞多と」
聞多は、この変わった名前を気に入っている。何でも聞きたがり、何でも知りたがる。藩侯が付けてくれたこの名前は、好奇心の強い
自分にぴったりだと思っていたし、何より響きが面白い。
「聞多」
晋作は言い、聞多を見据える。二人、初めてお互いを見、そして笑った。
「僕がいる限り、お前は退屈せんじゃろう。これから面白いもんをとんと見せてやる。じゃけえ、ついて来い」
この時の晋作の自信たっぷりな顔が、聞多は何より気に入っていた。最後の、病に侵され死を悟り、達観したように笑う晋作の顔より、
「ついて来い」とこの日聞多に言った、強気で傲慢で自信家な晋作の顔こそが、この男本来の表情なのだと、聞多はそう思っていた。
「井上聞多か」
耳慣れない男の声で振り返った聞多は、背後に迫る闇に何度も斬りつけられ、おびただしい量の血を流し、その場に倒れこんだ。
倒れた聞多をなおも斬りつける男がいて、頭上でわめき散らす男達の声を聞多は遠くで聞きながら、ついに意識を手放した。
目を閉じると、星がちかちかと聞多の周りで光っている。ぐるぐると天が回転し、こみ上げる吐き気、そして鉄の味に「死ぬのか」と
聞多は思った。その瞬間浮かんだ考えは、もう一度、女の肌に触れたいということだったというから、聞多という男は根っからの
女たらしらしい。その後、ふと仲間のことを思った。「お神酒徳利」と言われるまで親交を深めた俊輔と、誰と行動を共にするよりも
退屈をしなかった晋作と。二人のことがふいに浮かんで、俺が死んだら二人はどうなるなどと、珍しく殊更なことを考えたりもした。
ああまだ、俺はやり足りない。
聞多が覚醒した時、体は太い針と糸で繋がれ、その余りの激痛に今まで出したこともないような大声を挙げた。
痛みと吐き気で涙を流しながら声を上げ、現場に駆けつけた兄に介錯を頼んだ聞多を、わめきながら必死で止めた母は、いっそのこと
死なせてやった方が良かったのかもしれないと思いながらも、聞多の血だらけの手を握った。
聞多は既に、死のうなどとは思っていない。
頭の中は女のことと国への忠義と、そして、二人の若者のことと。この三つが交互に浮かんでは消え、聞多は歯を食いしばって
痛みに耐えた。この体が繋がったら、まず先に飯を食べ、若い女の匂いを嗅ぎたい。
俺はまだ、死ねないのだ。
俊輔は、顔をくしゃくしゃにして泣いた。晋作は眉間に皺を寄せ、「聞多、聞多」と何度も呼んだ。
全身を包帯で巻かれ、まるで芋虫のようになった聞多を最初に見た時、二人は声を失った。
初めに来たのは俊輔だった。転がり込むようにして井上家へやって来た俊輔は、一も二も告げず聞多の元へ駆けつけ、
「死ぬな、死ぬな」
と泣きながら大声でわめいた。体が震えて、膝が崩れ、聞多の眠る布団の脇に座り込む。
「聞多」
何度目かの呼びかけに聞多が気がついた時、俊輔の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていて、その汚い顔を見て聞多は
思わず笑いがこみ上げたのだが、腹筋を使うと傷口が痛むので唇を少しだけ上に吊り上げた。
そのわずかな表情の変化を俊輔は目ざとく見つけ、「今笑ったろう。お前、本当に、凄いのう」と泣き笑いでそう言った。
俊輔は今までの自分と晋作の仕事ぶり、藩の動向を手短に言い、「聞多、お前がおらんと何も始まらん」と、極めて真面目な声を出した。
聞多は俊輔の泣き腫らし、膨れ上がった目元を見る。何も言わない、いや、言えない聞多を見て、俊輔の目から、また
ぶわっと、勢いよく涙が出た。しゃくりあげる俊輔を霞む目で見つめながら、こいつも純粋に泣いたりするのだなぁと、
聞多は感心したりもする。聞多は鉛のように重たい腕をゆっくりと上げて、未だ生臭い、黒い血の滲む指で俊輔の鼻水を
拭ってやった。はっと、聞多の指に気がついた俊輔は、「汚いぞ」と笑って言い、またすぐに泣き出した。
「打算か」
声を絞り出して言う聞多に、俊輔はふと顔を上げ、
「そうじゃ」
と、真っ赤な目でそう言った。
俊輔が来訪した数日後、忍ぶように訪れたのは、高杉晋作だった。晋作は真っ白な繭のような聞多を見て、
「死ぬな。絶対に」
と、低い声で告げた。聞多は返事をしたいのだが、掠れた細い声しか出てこない。
聞多は包帯の隙間から、険しい顔をした晋作を見上げた。今は、昼なのか、夜なのか。それすらもわからなかったが、
晋作の表情が硬いということだけはわかる。こいつの顔は、こんなだったかのう。聞多は血の巡りの悪い頭で考えて、違う、と呟く。
俺の好きな顔は、こんなのじゃない。お前の顔は、もっと、いつも。
「聞多」
晋作は身を屈め、聞多の耳元に口を寄せた。湿った吐息を感じ、聞多は身を揺する。
「お前が死んだら、僕が退屈する」
聞多はあの日の晋作の顔を思い出していた。自信に満ちた、ふてぶてしい表情を。
「僕を退屈させんように、早く、出て来い」
そう言う晋作の顔が、少し歪んで見えた。聞多の視界が悪いせいか、それとも、別の理由か。
晋作はそれだけを告げると、さっさと立ち上がり外へ出てしまった。彼の足音が遠ざかるのをじっと聞きながら、聞多はじっとしていたが、
やがて大声を挙げたくて仕方がなくなってしまった。動きたくて、駆けつけたくて、早く、二人の元へ行きたくて。
俺がいないと退屈するか、晋作。
俺がいないと寂しいか、俊輔。
聞多はその時、猛烈に生きようと思った。この先、何があっても生き抜こうと。生きてやるのだとそう誓った。誰よりも永く生きようと。
たとえ、病がこの身に降りかかっても、銃で撃たれても、希望を失っても。
奇跡的に助かった聞多は、彼の誓い通り、病に侵された晋作よりも、凶弾に倒れた俊輔よりも、三人の中の誰よりも生きた。
今、聞多は、いや馨は、希望を失いかけているように見えるが、彼はまだまだ生きるのである。
誰よりも永く、生きるのである。
何よりも逞しく図太く尊いこの命を奪うのは、あの二人しかいないのだ。
end
“死んでも死なぬ”なとかげ聞多と俊輔と晋作。三人党よ、永遠に!