友情の定義



小さな窓から日差しが差し込んだ。ああ昼だと、晋作は瞼を上げる。
囚人の身である晋作は、狭い部屋の真ん中にごろりと寝転がりながら、天井を見上げた。
とと、と、軽い足音がする。妻である雅子が、この部屋へやって来る時間だ。
「失礼いたします」
雅子の凛とした声が響き、白い指が見えた。鍵を開け、晋作が寝る「獄」の中へ入ってくる。
冗談ではなく、雅子は日差しとともにやって来ると、晋作はおもっていた。この手作りの「獄」へ入って
からというもの、毎日のように雅子は食事を持ってきたり本を差し入れに来たり、甲斐甲斐しく晋作の
世話をしていたが、一向に笑顔を見せなかった。書生の身ではあるが、名門である高杉家を背負うべき
晋作が藩法を犯し、「獄」へ送られたということに、半ば呆れているのだろうか。馬鹿な亭主を持った
ものだと、そう思っているのだろうか。
雅子の後ろに、太陽がある。
牢格子を開けきった途端、柔らかな日差しがいっぱいに座敷牢の中に広がり、晋作は思わず目を伏せた。
「やあ」
と、晋作は明るい声を出した。実のところ、この薄暗い座敷牢にいると、暗い考えばかりが頭に浮かび、
周囲が真暗になる夜になると、それこそ晋作の思いはどんどん地に落ちていくので、こうして雅子が
訪れる昼間だけは、無理にでも明るく振舞っていないとやりきれなかった。
獄に入っていることなど、自分にとっては何でもないことなのだという、雅子への強がりでもあるのだが。
雅子は深々とお辞儀をし、夫が注文した本を、晋作の骨ばった膝の前へ差し出した。
「あんたはあれだ、お辞儀がうまいな」
え?と、雅子が顔を上げたのを見計らって、晋作はとうとうと話を始めた。
その話の大半は、世間話といった体のもので、晋作の頭にある長州の行く末や今の時勢のことなど、
雅子には一切話さなかった。雅子は、そんな晋作の話をじっと聞いている。
雅子としては、今まで知らなかった夫の日常を初めて知る貴重な機会だったので、晋作の世間話
を真剣に聞いていたが、ふいに「これからお国はどうなるのでしょう」と聞くと、薄く笑うだけで
晋作が何も語ろうとはしないので、ああやはり私は馬鹿にされていると、心の奥でそう思うのだった。
「聞多と俊輔といえば、部類の女好きで」
と、晋作はしきりに井上聞多と伊藤俊輔のことを語った。二人の馬鹿馬鹿しいエピソードを、多少の誇張
を含めて笑いながら雅子に語る。晋作は、雅子がどんな表情で、そしてどんな思いでこの話を聞いているのか、
そんなことはどうでもよかった。ただ、話がしたかった。晋作は、勝手に動く自分の唇を滑稽だと思いながら、
とめどなく二人の話を面白おかしく雅子に語った。二人の話をしている瞬間は、自身の身の振り方も、友の
安否も気にすることはなかった。もはや、思考とは別の所で話を続けていて、晋作は自然と気持ちが高揚し、頬を赤くした。

ごほんと、低い咳払いが聞こえる。父・小忠太の、「そろそろ獄から出て来なさい」という、雅子への合図だった。
雅子ははっと首を上げ、背筋を伸ばす。「では…」と、小さくそう言って、いつものように美しい仕草で立ち上がった。
雅子のこういった武家の妻らしいきびきびとした仕草を晋作は愛していたし、同時に苦手だとも思っていた。
牢格子を開けると、赤い夕陽が雅子の頬を照らす。夕闇はすぐそこだと思うと、晋作の気持ちは落ち込まずにはいられない。
「旦那様は」
格子から顔を覗かせ、雅子は寝転がる晋作を見た。およそ武士とは思えぬザンギリ頭に着流し、目ばかりが光った
細い晋作の顔を、雅子は真っ直ぐに見つめる。
「お二人のことが、本当にお好きなのですね」
「うん?」
雅子は、女特有の湿った嫉妬心などかけらもないような、からりとした口調でそう言った。
答えを聞かぬまま、晋作の美しい妻は「獄」の外へと消えていく。雅子が消えると同時に、夜の冷たい空気が
晋作の髪の毛を揺らし、思わず身震いした。
おふたりのことがほんとうにすき。雅子の言葉を反芻しながら、晋作は固い畳の上に寝転んだ。
おふたりのことがほんとうに
意味をかみ締めるやいなや、晋作の白い首はさっと赤く染まっていく。
ああと、頭を抱えたい思いだった。お二人、とは、聞多と俊輔のことだろう。
そうか、そんなに僕は、あいつらのことを楽しそうに語ったか。
それも、自分の意識のないところで、とうとうと。
晋作は、愛されるのは、許されるのは得意であっても、人を愛することが苦手だった。
素直に感情を、表に出すことができない。
愛されることがあっても、愛してはならないのだ。晋作は勝手に、そう考えている。
友を思う気持ち、妻を思う気持ち、家族を思う気持ち。世間一般で「やさしい」とされているそういった
感情を、表立って示すことは、晋作の得意とすることではなかったし、また、してはいけないと思っていた。
そうして自身を律していなければ、自分はきっと、崩れてしまう。
日差しとともにやって来る雅子に接するたび、父と母の気遣いに触れるたび、友への思いに突き動かされるたび。
自分の精一杯張っていたメッキが剥がれていくようで、晋作はその都度自分を制した。
僕は、狂でなければならない。普通の幸せなど、平穏など、優しさなど、必要ないのだ。
ともすれば無限のループに落ち込んでいくような暗い思考に、困惑する心情に、傷つきやすい魂に蓋をするために。
暴れ馬でなければ、いつでも突飛で、乱暴で、奇抜でなければならない。
そうしていないと、晋作は潰されそうになるのだった。他でもなく、自分自身に。

獄の中はやせ細った手のひらが見えないほど、暗闇に包まれている。
硬く目を閉じ寝転がる晋作の元へ、井上聞多がやって来るのはあと少し。
晋作は未だ朱に染まる自身の細い首を手で叩き、今一度、自制した。

僕は好きであってはならないのだ、何者も。

そうして晋作は、やって来る闇に、友への思いに、息を潜めて耐えるのだった。




end




…晋作と雅子ちゃんと聞多と俊輔。捻くれた晋作さんですね。何だこりゃ。