月の裏で会いましょう



せんせい、という単語は、晋作の中でもはや神格化され、尊いものになっていた。
「先生」という言葉を口にするたび、心の中が浄化されていく気がしたし、何より晋作がそう呼んだ時の、松陰の優しい顔が好きだった。
その松陰は今、獄にいる。
江戸の伝馬獄に繋がれた松陰の頼みを聞いて、書物や筆の差し入れ、金の工面などで日々追われている晋作だが、松陰自筆の手紙を読む
だけで救われた思いがし、獄にいてもなお、希望を絶やさない松陰の手紙を見ていると、心が軽くなる思いだった。
何故、松陰が江戸に送られたのか。
故郷の萩では、長井雅楽が怪しいとみなされ、村塾生らは彼を目の敵にしている。
晋作もご他聞にもれず、長井憎しとなっていたが、彼は今、なにより松陰の頼みを聞いてやることで精一杯だった。
伝馬獄の獄卒から松陰の手紙を受け取り、晋作は一息ついた。松陰の文字を眺めるだけで、心が穏やかになっていくのがわかる。
晋作は、松陰ほど無私無欲で理想を追求し、己を省みることなく、死んでも構わぬと強い心でこの国を思う人間を知らない。
松陰のように革命に身を投じたいという思いは、晋作も同じである。しかし、長州では立派な上士といえる高杉家の地位や、村塾に学ぶ
ことに常々反対していた父の思惑などが足枷となり、晋作は未だ、自分は何をすればよいのか、何を目指せばよいのか決めかねている。
ふと、こういう時、親友の久坂玄瑞を羨ましく思う。彼は松陰の妹・文と結婚し、今は杉家で残った門下生たちに勉強を教えながら
日々の生活を送っている。彼は、小さな頃に家族を亡くしていた。玄瑞には、晋作のような足枷も何もない。
そんなことを羨ましく思うのは不謹慎だということは重々承知の上で、晋作は悩んでいる。彼は常に、己の内なる葛藤と戦っていた。
晋作は矛盾している。誰よりも長州という国に誇りを持ち、藩主を守る武士として、死をも厭わぬ忠誠心を抱きながら、一方で
松陰のように同志を捨て家族を捨て国を捨て、己に降りかかる全てのものを振り切って、革命活動に参加したいという思いもある。
文献でしか知らない異国の地を見て回りたいとも思うし、松陰のような過激な反幕府活動を展開したいとも思う。江戸にいる晋作は昌平黌で
様々なことを学ぶうち、実際に海へ出て書物の中に書かれている異国の文明の高さや進んだ技術を、自身の目で確かめなければならないと思った。
資料の中で語られる遠い地の文明を、歴史を、そして日本の現状を、外から見てみたいと思ったのだ。
しかし、と晋作は思う。そんなこと、出来るわけがない。父の命令一つで、江戸へ行ったり萩へ帰ったり、最近では婚約話も出ているという。
未だ「父」という重たい鎖に繋がれる自分が、松陰のように激越な行動が出来るものか。ましてや、異国へ留学するなど。
晋作は溜息をつき、松陰の手紙を広げる。松陰の人柄がよく表れている、優雅で細い筆跡を一つ一つ丁寧に拾いながら、晋作は大切に
読み進めた。松陰はいつも、「暢夫が江戸にいてくれることだけが今の私の救いだ」と言う。晋作にとって、これほど嬉しいことはなかった。
松陰が一番かわいがり、そして一番愛しているであろう久坂玄瑞は、故郷の萩にいる。玄瑞のいない今こそ、晋作が彼の分まで松陰を励まし、
松陰のために何かをしなければならない時だった。頻繁にやって来る玄瑞からの手紙には、「先生はいつ獄から出るのか」と書いてある。
それは玄瑞だけでなく、村塾生全員の思いであって、晋作は「もうじきだろう」と答えていたが、この時点では誰も、松陰が刑死するなどとは思っていなかった。
必ず先生は出てこられるのだと、そう思っていた。

伝馬獄で日々を送る松陰の暮らしを少しでも改善するため、晋作は今日も、金策に駆けずり回っていた。
藩の上士に生まれ、自分で金の無心などしたことのない晋作にとって、それは初めての経験であったし、後の彼も井上聞多を使い、藩の
金を出させることはあっても自ら金策をすることなどなかったので、彼の人生の中で特殊な時期であったことは間違いない。
晋作はそもそも、その出自ゆえかそれとも生まれつき持った性格がそうさせるのか、人を使うことがうまく、それも自然にやってのけてしまうので、
命令される方の人間もごく当たり前に晋作の言葉を聞いていた。そんな晋作が、この時期、松陰のために奔走している。
松陰から届けられる手紙に、死の匂いが立ち込め始めたのは、いつだったか。
普段とは違う師からの手紙に、晋作は思わず手が震えた。遠くの方で、「先生は死んでしまうかもしれない」という警報がうるさく鳴り響く。
そんな思いを吹き消すかのように、晋作は勢いよく頭を振った。まさか、先生が死ぬわけがない。
しかし、そんな晋作の思いをよそに、橋本佐内や頼三樹三郎、鵜飼吉佐衛門らが次々と斬刑された。
晋作の脳裏に、暗雲が広がる。松陰も、いよいよ覚悟したのか、彼の手紙には未来へ希望や夢が書かれることは少なくなり、
「暢夫、これまでの君の心遣いに私は大変感謝している」
など、晋作はもとより久坂や吉田栄太郎、入江ら村塾生へ向けた感謝の念や、これから成すべきことなど、予言めいた言葉が多くなっていた。
それはもはや、去っていく者が最後に残していく、魂の一欠けらのように思えた。
晋作は、泣きたい思いで手紙を読んだ。読みながら、悲しみと寂しさに震えたが、やがて憎しみが晋作の心を支配した。
先生は、死ぬかもしれない。そう思うと、晋作は松陰の手紙をぎゅっと握り締め、色の薄い唇を強く噛んだ。
絶望が、押し寄せてくる。爽やかな秋の風が、江戸の街を吹きぬけた。さわさわと鳴る木の葉や、賑やかな街の喧騒が、ひどく遠いもののように感じた。
晋作は、伝馬獄へ踵を返す。自然と足どりが速くなり、時折もつれ、今にも転びそうな態勢で晋作は走る。
獄の前へ着いた晋作は、鋭い目つきで牢役人を睨みつけた。晋作の尋常ではない気配に、役人はさっと、目線を外す。
井伊大老が、志士をことごとく断罪している。そんな噂を、もちろん晋作も聞いていた。そして、師である松陰が、人並みはずれて純粋で
真っ直ぐで、何より己の正義を曲げない人だということも知っていた。
晋作は松陰のそんなところを尊敬していたし、また、そういうところが、自分は松陰のようになれないのだという思いを晋作に抱かせる所以でもあった。
晋作は、獄の前で立ち尽くす。先生と、心の中で何度も呼んだ。一目でいいから顔が見たい。声が聞きたい。
晋作の中は、今や憎しみで支配されている。幕府が憎いと、この時晋作は心の底からそう思った。
この、目の前にいる役人が、もし松陰を死に追いやるのだとしたら、自分はこの男を殺してしまうだろう。
松陰は、誰よりも国を憂いていた。誰よりも真っ直ぐに、真剣に、国の未来を考えていた。その松陰が何故、死ななければならないのか。
松陰は、人を蔑むなといった。先生なら、この状況においても誰をも憎まず、恨むこともせず、静かに自分の運命を受け入れるのだろう。
先生は大きいな。
晋作は思い、俯いた。それにひきかえ、僕はどうだ。到底、先生を死に追いやる幕府を許すことなど出来ない。ましてや、受け入れることなど。
晋作が憎しみと怒りで全身を染め上げた時、奥から高齢の役人が顔を出し、晋作に手紙を渡した。松陰のものである。
乱暴に受け取り、晋作はその場で手紙を広げた。
「君の未来を想う」
たった一言、そう書かれた手紙を読み、晋作はめまいを覚えた。松陰の美しい心と、自身の中に渦巻く憎しみとが合わさって、晋作はたまらず呼吸した。
松陰を死刑台へ送る人間など、全員殺してしまいたい。幕府など、滅んでしまえばいい。
だが、松陰は感謝の念だけを口にする。一人で静かに、時を待っている。
先生の言葉は、僕を浄化する。
きれいな先生の心が、汚い僕を、浄化してゆく。
そして美しい水に流され、心の底に残った憎しみと悲しみが、今の晋作の明日への糧だった。
先生、行かないでください。
晋作は悲痛な叫びを胸に押し殺し、江戸の街を駆けた。不安という名の嵐が晋作の体を揺さぶり、今にも暴発しそうだった。
憎しみに、潰される。



松陰は懐かしい顔が並ぶ村塾の風景を思い出し、にこやかに笑った。
故郷では、第一等の人物として松陰が最も信頼を寄せた久坂玄瑞が、残った塾生達を指導している。
自分は、もうじき死ぬだろう。松陰は真っ暗な伝馬獄の中、つとめて冷静にそう考えた。
今まで、やるべきことは全てやってきた。一欠けらの私心もなく、全てはこの国のため、自分に出来ることは何でもやってきたつもりだ。
そして、数々の優秀な仲間を得た。
松陰はぼんやりと考えながら、それぞれの顔を思い出す。その中には、身分が高く放漫な人間もいれば、足軽出身でどこまでも立身出世を
望む者もいる。家柄も性格も各々違い、それだけに面白く、松陰は彼らを導くことに熱中した。
特に、松下村塾四天王と呼ばれた四人の才気溢れる若者達には、松陰は己の情熱を全て傾けて指導し、彼らの才能を、思いを、理想を愛した。
松陰は、ゆっくりと息を吐き、目を閉じた。ひんやりと冷たい獄の中で、松本村の満天の星空を眺めるように上を向く。
松陰の瞼の奥では、今でもきらきらと、無数の星が明滅していた。

松陰は、杉家の縁側にいた。離れでは、妹である文と、塾生の久坂が農業に精を出している。暖かな日差しが松陰の鼻先をかすめ、
小さく簡素な庭は、光の粒で溢れていた。草木は輝き、畑で仕事をする塾生らの顔は、どれも溌溂とし明るかった。
松陰は目を細めその光景を見、夢のような日だと、心の奥でちらりと思う。そう、それは、紛れもなく、いつかの杉家の姿であった。
松陰が縁側に仰向けに寝転がると、場面は暗転し、頭上にはこぼれんばかりの星が輝いていた。月は、今にも落ちてきそうなほどに大きい。
ああ、これは夢だと、松陰は思う。
赤や青の星を見つめる松陰の細い顔に、何度も聞いた懐かしい声が降ってきた。若く、しゃんとした活発な声である。
「先生」
声の主を見ようと松陰が起き上がると、ぼうっと白い光を纏った高杉晋作が立っていた。松陰の記憶の中の頑固で鋭い高杉ではなく、
どこか鬱屈し、迷っているような、何かを探る高杉晋作がそこにはいた。
「僕はこれから、何をすればよいですか」
高杉は澄んだ声で言い、真っ直ぐに松陰を見つめる。
「僕には到底、父を裏切ることはできません。しかし、先生の思いは、必ず叶えたい」
僕はこれから、何をすれば。
道を見失う高杉を、松陰は微笑みとともに見上げた。先生と呼ぶ彼の声が、とても小さくかすれていたので、松陰はその手で高杉の肩を優しく撫でた。
君は、君であればいい。
「僕は幸せ者です」
松陰が笑って言うと、高杉は不可解な顔をし、やがて穏やかに頷いた。
気がつけば、久坂や高杉、吉田、入江など、松陰が期待し、惜しみない愛情を注いだ塾生達が、月明かりの下、松陰の周りを取り囲んでいた。
松陰は一人ひとりの顔をじっと見つめ、もう一度、
「幸せだった」
と呟いた。久坂玄瑞は、誰よりも強い目で松陰を見据える。吉田栄太郎は、体の中に巣食う熱を抑えながら。入江九一は海のように静かな心を松陰に向けながら。
松陰は未だ惑う高杉を、愛しげに見上げて微笑した。初めて会った時の彼は、どこまでも頑固で鼻っ柱が強く、傲慢だった。
向こう見ずでやんちゃで、松陰は高杉のそんなところを愛していたし、久坂や他の塾生らと交わることによって、彼の世界が広がることを望んだ。
誰よりも豪放だと思っていた高杉の、脆い部分を覗いたのはいつであっただろう。
松陰の元で学ぶことを快く思わない両親の目を盗み、せっせと村塾へ通って来る高杉は、それでも、真面目で誠実な実の父を裏切ることなど出来ない。
本当は、心の底から父の願いを叶えたいと、母を安心させたいと思っている。しかし、彼の激情がそれを阻む。
親と藩主、師である自分との間で揺れ動く高杉を、松陰はこの時初めて、心の底から理解し、慈しんだ。
僕は、久坂玄瑞の正義を愛した。吉田栄太郎の情熱を愛した。入江九一の誠実さを愛した。
そして、高杉晋作の魂の崇高さと、彼の優しさを愛した。

松陰は目を開き、つかの間の幸せな夢に酔いしれながら、最後の手紙を書こうと筆を取った。
未来に迷う高杉を導いてやることが、江戸に赴いて以来、金策や差し入れにと奔走していた彼への、せめてもの恩返しだと思った。
彼には、革命の指導者たりえる能力も、天賦の才も備わってはいるが。
故郷で心配する高杉の父や母のことを思い、そして、両親を想う高杉のことを考え、松陰は筆を進めた。
僕が、君の優しさを愛したと言えば。君はやはり、嫌がるだろうか。
分厚い天井に阻まれて見えない故郷の深い空の色を、瞬く星を、揺れる木々を、広がる海を心の中に浮かべ、松陰は口元だけで笑う。
彼の耳にはいつまでも、時に激しく時に優しく、遠い故郷の地を満たす波の音が響いていた。
僕は幸せだった。僕は今まで、確かに幸せだった。
そう、何度も繰り返しながら、松陰は最後の手紙を書いた。



杉家で訃報を聞いた玄瑞は、泣き崩れる妻や姑の顔を見下ろしながら、拳を握り締めた。
松陰の死の知らせはすぐに村中に広まり、その日何人もの塾生たちが杉家を訪れ、玄瑞に面会を申し出た。一人一人と律儀に談話し、時に励まし、
玄瑞は皆の前では笑顔を絶やさなかった。自分こそ、しっかりしていなければと思ったのだ。
夜もすっかり更け、杉家の面々が寝静まった頃、門を叩く音がした。玄瑞は直感で誰かを悟り、起き上がろうとする文を静止して、夜着のまま外へ出た。
玄瑞の思惑通り、門の前には提灯の小さな明かりに照らされた、親友・高杉晋作が佇んでいた。
しばらく見ない間に、頬がこけたような気がする。
晋作とは長い付き合いになるが、彼の知る記憶の中のどの晋作よりも骨ばって見え、元から痩せていた彼の体が、一段と小さく思えた。
白い腕に、血管が浮き出ている。肉のない指を強く握り締め、晋作は無言で立っていた。
玄瑞は彼を招きいれ、二人は日中、塾生らが集う平屋の中へ足を踏み入れる。晋作が持ってきた提灯の火は、既に消えていた。
二人は黒い闇の中、お互い何も言わず冷たい畳の上に座っていた。松陰のいない松下村塾は、晋作の思い出のそれとは全く違い、
ひどくがらんとし、侘しいものに見えた。森の梟の鳴く声が、不気味に響いている。
「僕は何もできんかった」
ぽつりと呟く晋作の声を聞き、玄瑞は息を詰める。ごくりと唾を飲み込むと、彼の中で今まで我慢していたものが、一気に溢れ出した。
絶望や悲しみや憎しみといったどろどろした感情が、玄瑞の体をせわしなく駆け巡り、彼はたまらず下を向いて、白い顔を歪ませた。
「久坂、僕は幕府を許さん」
晋作の、決意を固めた強い声が降ってくる。玄瑞の体は、小刻みに震えていた。松陰が死に、動揺する塾生達を懸命に励ました。
今こそ僕らが立ち上がる時だと声を上げ、皆を鼓舞して回った。さすがは久坂さんじゃと、彼らは口々にそう言った。
違うのだ、本当は。そうしなければ、憎しみに押し潰されそうだった。先生を殺した奴らを一人残らず処刑して、先生を返せと叫びたかった。
そんなこと、松陰が望んでいるはずはないというのに。そんなことをしても、先生は返ってこないというのに。
玄瑞は必死に感情を殺し、皆の前で彼らが望む“久坂玄瑞”を演じた。
演じることによって、玄瑞の内で荒れ狂う激情をどうにか飼い慣らしていたのだが、久しぶりに親友の顔を見たせいか、少し気が緩んだ。
今なら平気で、人を殺してしまかもしれない。そんな物騒な思いが、玄瑞の中を支配する。玄瑞は自分自身を滑稽に思い、そして空恐ろしくもなった。
憎むことでしか、あんなに真っ直ぐで美しく、己を導いてくれた松陰が殺されたことに対する気持ちの整理がつかない。
静まり返った部屋の中、玄瑞は音もなく涙を流した。松陰の訃報を聞いてから、泣くことも出来ずにいた玄瑞だが、ようやく彼は、涙を流した。
松陰がいなくなってしまったから。それもある。とても悲しいし、遣り切れないし、許せない。
しかし、憎しみばかりを抱き、どろりとした感情に振り回される自分が情けなく惨めで、玄瑞は泣いた。
僕はとても、無力だ。
晋作は、玄瑞の白い頬を流れる透明の雫を見、それを彼の細い指で掬い上げた。舐めてみれば、ひどく切ない。
玄瑞の涙を拭うことによって、彼と自分の中に潜む憎しみという名の感情を、どうにか消し去ってしまいたかったのが、玄瑞がゆっくりと顔を
上げたので、晋作は少し、戸惑った。晋作はいつも、玄瑞の強さを羨んでいた。自分とは質の違う真っ直ぐな熱を、思いを、玄瑞はその大きな
体いっぱいに抱いていたので、晋作はその強さが好きだった。彼に、顔を上げてほしかった。
その為に自分ができることといったら、彼のきれいな涙を拭いてやることしか、晋作は思いつかなかったのだ。
口に含んだ玄瑞の涙は、とても悲しかった。

小さな窓から、月が見える。先程まで厚い雲に覆われた月が姿を現し、部屋の中を白い光で満たした。
晋作の指が触れた頬が、びりびりと痛む。
松陰が死んだというのに。誰よりも敬愛した師が亡くなった日だというのに、晋作の指が頬を、顎を、赤い目の淵を彷徨うたび、
玄瑞は甘い痛みに耐え続けた。鼓動が大きくなる。晋作の指を掴み、引き寄せたいと思う。先生が殺された日に、なんと不謹慎な。
玄瑞は、暗闇をありがたいと思った。自分は今、どんな顔をしている?
「玄瑞、泣くな。僕らはこれから、先生の志を継ぐんじゃ」
やることはたんとあるぞ。
晋作は、切ない顔を玄瑞に向けた。彼は笑っているが、本当は。
晋作の顔を正面から見つめた玄瑞は、彼のこめかみにそっと唇を付けた。何故、そうしたのかはわからない。
ただ、衝動的に、玄瑞は形のいい赤い唇を、晋作の額へと合わせた。
晋作は、黙っている。冷たい夜風が二人の間を駆け抜け、主のいない塾の中、二人は固く身を寄せた。
「晋作、お前こそ、そんな顔をするな」
玄瑞は小さく笑って、晋作から身を離した。二人が寄り添ったのはほんの数秒の出来事であったが、それでも、充分お互いの考えている
ことはわかっていた。晋作に触れた指が、唇が、腕が、彼が触れた頬が、ひりひりと痛い。
彼らの中の憎しみは、きっともう小さくなっていて、そうして二人はこの部屋で新しい朝を迎えた。
玄瑞は松陰の期待を、晋作が与えた甘い痛みを、晋作は、松陰が注いだ慈愛を、玄瑞がもたらした強い光を。
二人は忘れずに、進んでいくのだ。夢と理想と、悲しみと絶望の重なり合った心で。
新しい朝は、切なさと希望に満ちていた。  




end




松陰先生と玄瑞と晋作。玄瑞と晋作はどことなくフォモテイストです…。