シガレッツ&アルコール



キセルに詰めた煙草をふうと吹き出した。
煙は瞬く間に灰色の線となり、空気に溶けていく。煙草は、好きではない。
堀真五郎は隣でごろりと横になり、並々と注がれた酒を煽っている高杉を見た。
高杉は数年前に禁煙宣言をして以来、煙草を吸ってはいないようだ。彼の尊敬する師・吉田松陰が煙草嫌いだったせいも
あるが、同志である吉田稔麿がキセルを派手に折り、「金輪際、僕は煙草を吸わんぞ」と大声でわめき散らし、高杉もそれに
同調した。高杉はすでに、毎日のように煙草を吸っていたし、口にしないと調子が狂ってしまうほど依存していたのだが、
皆の前で稔麿と共に宣言した手前、気安く煙草に手を出すことなど出来ない。
真五郎は滅多に吸わない煙草をすぐに置き、酒の匂いで充満した部屋の障子を開けた。
外気が流れ込み、冬の匂いが辺りに立ち込める。高杉は大袈裟に咳をし、「寒い。閉めろ」と短く言う。
真五郎はしばらく、ぼんやりと重い雲の覆う冬の空を眺めていたが、高杉が小刻みに薄い肩を震わせたので、そっと、障子を閉めた。
「この煙草、誰のじゃ」
真五郎が言うと、高杉は顔を背けたまま、「女」と言った。
なるほど、部屋の中には酒の匂いのほかに、女のつける白粉の匂いも混じっている。真五郎はふうと溜息を吐き、
「いい加減にせい、体を壊す」
と、高杉に言った。高杉はくく、と、軽く笑ったまま返事をしない。そのまま酒瓶が空になるまで煽り続け、
ついには畳の上に突っ伏して、すうすうと寝入ってしまった。真五郎はうつ伏せになった高杉の、骨の飛び出た首筋を見ながら、
脱力したように寝転がる。ここ数ヶ月、高杉は毎日こんな調子で、飲んだくれるか女と遊ぶか、彼の父親である小忠太が聞けば
すぐにでも萩へ呼び戻せと言うであろう放蕩の日々を送っている。真五郎は太陽が落ち、夕焼けが京の街を染めた頃、
高杉が騒ぎ、酒を飲んでいる妓楼へと足を向けるのが日課となっていた。真五郎が来訪した頃、高杉はすっかり酔いが
回っており、呂律の回らない口で「帰れ」と叫んだかと思えば、「お前も飲め」だとか「皆はどうした」だとか、とろりと
した目でそう言うので、真五郎はいつも、冷たい水を彼にあてがい「とりあえず休め」と言うのだった。
気分が高揚し、従来の明るさを纏った高杉は、誰よりも鋭気活発でそこら中を飛び回っているのだが、一旦自暴自棄になると
地の果てまで落ち込んでしまい、元の彼に戻るのに数ヶ月かかることもある。その点、真五郎は高杉のそんな性格には慣れていたし、
このままそっとしておくしか術がないことも知っていた。同胞たちが、毎日馬鹿騒ぎをし、女をはべらし酒を煽っている
高杉を遠巻きに見つめる中、真五郎は高杉を収めることこそ自分の役目だと信じていたので、何も言わず、ただ高杉の
連日連夜、飽きることなく続けられる饗宴に付き合っていたのだった。

いつの間にか眠っていた真五郎は、はっと目を覚ますと火を点け、部屋に明かりを灯した。赤い光がぼんやりと、
隣で眠る高杉の横顔を映している。将軍暗殺という、途方もない大仕事に案の定失敗し、高杉は何の手立てもないまま日々を過ごしていた。
「松下村塾の双璧」と謳われた久坂や他の同志たちとも意見を違え、何もせずにこうして京の街で呑気に時間を過ごすことは、
己の理想のために死を決意した高杉にとって、余りにも悔しく、耐え難いことだった。
酒を飲み、遊び狂うことによって、自分の中の鬱憤を晴らしている。
そうでもしないと、毎日生きていることが嫌になってしまうらしい。天才ゆえなのか、またはただの変わり者なのか、
こういった自棄になる一面が高杉にあることは早くから気づいていたが、真五郎は長い付き合いの中でなお、高杉の
精神の在り方がわからないでいる。高杉のように鬱屈することも、はたまた気概に満ちた時の彼が発するような突拍子もない
行動も、真五郎にとっては体験したことのないものだったので、彼は高杉が悩み、苦悶している今、何をすべきか
わからない。ただ、傍にいてやること。真五郎は、それだけが自分にできる唯一の友情の証だと思っていた。
真五郎には、これといった理想はない。高杉や久坂、入江から、国の情勢やこれからの日本のあるべき姿などを毎日のように
聞かされてはいるが、いまいち自分が彼らの行動に参加しているという実感が持てないでいるのだ。
真五郎にも、わずかながら考えというものがある。
あるが、それを彼らのように上手く説明することができないし、また、するべきでないと思っていた。
真五郎は今でも、自分の一番の仕事は高杉の父・小忠太に「息子を頼む」と言われた時の、あの言葉であると信じていたし、
それに自分はそれ以上の仕事をすべきでない、できないと思っていた。
真五郎は、ぶるりと大きく震えた高杉の為に火を炊き、部屋を暖める。それが、今の彼の仕事であった。


道端で、やせ細った灰色の野良猫が、日向に当たり伸びをしていた。高杉はそれをしばらく眺めた後、気まぐれに手を伸ばし、抱き上げてみる。
見慣れない高杉の仕草に、真五郎は思わず目を向けた。
高杉の吐く白い息は、すでに酒の匂いがする。彼の濃紺の着流しもまた、昼には似つかわしくない香りがした。
久しぶりに太陽の高いうちに外に出てきたかと思えば、高杉は何をするでもなく猫と戯れている。
「その猫、随分痩せちょるな。病気かもしれんぞ」
真五郎がそう言うと、「猫でも病気という大層なものにかかったりするんか」と、高杉は悪戯そうな笑みを浮かべて問う。
「…そりゃあ、猫じゃろうが犬じゃろうが、かかるじゃろう。怪我だってする」
真五郎の答えに高杉は「ふうん」とだけ言い、腕の中の猫を地面に下ろした。
「僕と同じか」
一つ、咳をしながら高杉が言う。真五郎は息をつめ、高杉のか細い背中を見送った。
葉の散った寒そうな木々が、ざわざわと風に揺られ鳴いていた。


その日は風が強かった。障子がガタガタと大きな音を出して揺れ、簡素な宿が吹き飛んでしまいそうなほど、
明け方までごうごうと風は鳴り止まなかった。京の街を流れる鴨川は、風のせいで氾濫したかもしれない。
向かい風の中必死に進み、真五郎は高杉の泊まる妓楼へと向かった。突風が真五郎の髪の毛や袴を跳ね上げ、砂利が何度も
口や目に入った。組んだ腕で顔を覆いながら、真五郎はなんとか歩を進める。
やっと妓楼が見えた頃、真五郎は上を見上げ、呆気取られた。この暴風の中、高杉は窓を開け放ち、荒れ狂う京の街を眺めていた。
高杉のバラバラに結ってある真っ黒な髪の毛が、風のせいで生き物のように動いている。
生気を宿していない空洞のような目をして、高杉は風に吹かれる柳の木や、氾濫する川を見下ろしていた。
真五郎は急いで妓楼へ上がり、高杉の居座る部屋へと向かう。高杉は真五郎が襖を開けても、部屋の中へ足を進めても、振り返りもしなかった。
高杉の後ろから腕を伸ばし、壊れかけている障子を閉めた。やっと真五郎の存在に気づいたのか、高杉はついと、目を上げた。
「何をしちょる。お前、髪がめちゃくちゃじゃ」
真五郎がそう言うと、「お前も」と、高杉は少し笑った。
「何を見ちょったんじゃ。こんな、嵐の中」
「お前と」
ねこ、と、高杉は言った。「猫?」真五郎が問い返すと、高杉は傍らの酒を手に取り、静かに注いだ。
「昨日の猫じゃ。風に飛ばされて川に落ちた。ありゃあ、もう、無理じゃな」
高杉は透明な酒を眺めながら、ゆっくりとそう言った。真五郎は、黙している。
「動物も人も、簡単に死ぬ。先生は…」
せんせい。真五郎は思う。ああ、松陰のことかと。高杉にとって、偉大で神々しく、とてもとても大切だった人。
「僕は、毎日酒を飲んで、女と遊んで、嫌いな奴もたくさんおって、毎日気に食わんことだらけじゃ」
だけど、先生は。松陰は、そうではなかった。人を、世の中を、恨まなかった。決して、憎まなかった。
僕とは違って、とても、とても。
「僕の体はなぁ、多分、真っ黒じゃろう。毎日浴びるように酒を飲んで、昔は煙草も吸っちょった。先生は、煙草も酒もやらんかったが」
真五郎は、高杉のうつろな目をじっと見る。高杉は乱暴で高慢で我侭で、手に負えない暴れ馬だが。
小さきものの死を悲しみ、大事な人の死を悼んでいる。人々が忘れていく記憶を一つ一つ掘り起こし、そして気にも留めない
小さなものの生命を見出し、こうして悲しみにくれている。どうしようもなく哀れで馬鹿だと、真五郎は思った。
「僕の病は業の報いじゃろうが、先生は、何をした」
あの、猫も。
最近頻繁になってきた咳を一つし、静かに自嘲する高杉を見据え、真五郎は大きく息を吸い込んだ。外はまだ嵐だ。彼の中も、また。
「お前の体が真っ黒なら、俺の中身をやる。俺は幸い、酒も煙草もやらん」
大きな音を立てて、襖が風に押されている。あの猫は、きっと川の中。この嵐の中、猫に気づいたのは高杉だけであろう。
小さき獣の死を、彼は確かに記憶した。
「そのために俺は、毎日ここに来ちょる。じゃけえ俺は、酒も煙草もやらんのじゃ」
真五郎の仕事は、高杉をきちんと見張ること。高杉の暴走を止めること。自棄になった高杉の傍にいること。
そして、このからだをわたすこと。



真五郎は確かにその時、高杉の前でそう決意したのだが、その言葉が実現することはついになかった。
けれども、「お前の体なぞいらん。僕が困る」と言いいながらふんと鼻を鳴らし、照れたように笑う高杉の顔は、晩年まではっきりと覚えていた。
その後、高杉は革命を成功させ幕府と戦い、ついに彼の言う「業の報い」である病に倒れるのだが、最後は穏やかに眠ったという。
あの時真五郎は確かに、高杉の前で決意したのだ。あの時俺は、本気だった。
あの日、高杉の腹をかっさいて、彼の真っ黒な肺を、胃を、心臓を抉り出して自分のそれと変えてやればよかった。そうしてやれば。

真五郎は今でも、風の強い日はそんなことを考えて、我ながら酔狂だなと、そう思い静かに笑うのだった。




end




真五郎と晋作。二人の友情?をテーマに書いたはずなのですが…惨敗です。