三人の食卓
なぜ私はここにいるのだろうと、その日、村田蔵六は不思議に思っていた。
しかし、蔵六は元来無表情で感情表現の乏しい性質なので、他人から見れば普段と何ら変わりない、
いつもの「火吹達磨」の村田蔵六にしか見えなかったのだが。
蔵六の前に、膳が運ばれてくる。黒い漆の膳の上には、豆腐が一つ、乗っていた。蔵六は嬉々として(もっとも、その蔵六の表情は
いつもと変わらぬ無愛想なものであったが)箸を取り、豆腐に手を付ける。その時、「噂通りじゃな」と、甲高い男の声が聞こえた。
蔵六が口を動かしながら男の方へ視線をやると、唇の端を奇妙に歪め、「よおく聞いちょります。村田先生は、豆腐が好物じゃと」と笑った。
「豆腐は栄養値が高いのだそうだ」
もう一人の男が、そう説明する。蔵六は黙って豆腐を食べ続けていたが、他の二人は膳に手を付けようともしない。
異常な緊張感が走っていた。蔵六だけは毎日の夕食と同じように箸を動かしていたが、蔵六の両隣に座る男二人は、未だ沈黙を守っている。
「食事と酒を振舞うから」と言われ、蔵六はこの妓楼へやって来た。初めは「家で食べるのでいい」と断ったのだが。
蔵六は大勢で食事をし、飲んだり騒いだりすることが
好きではなく、どちらかというと苦手としていたし、一人で飲む酒ほど上手いものはないと思っている。
が、「ぜひお越し頂きたい」という男の熱意に押され、蔵六は渋々やって来たのだった。
場所が妓楼というのも、蔵六が行きたくないと思った、原因の一つである。女遊びも、蔵六は好きではない。
長州藩の、とりわけ若い志士などは、江戸や京都で放蕩の限りを尽くしたそうだが、それでも藩の重役達は「若さゆえ」と彼らの振る舞いを
咎めるようなことはしなかった。しかし、蔵六はそんな若者達を冷めた目で見ていたし、今に痛い目にあうぞとも思っていた。
明日死ぬかもしれない命だからと理由を付けて大騒ぎするなど、蔵六にとって馬鹿らしい以外の何者でもない。
人は、必要最低限の物さえあればいいのだ。下手に酒や女で自分を欺くと、いつかきっとしっぺ返しにあう。
そう、食べ物など、この目の前にある白い豆腐で十分なのだ。
用意しようと思えばいくらでも豪華な食事を出せただろうに、蔵六の好物である豆腐をわざわざ出したという気遣いを、蔵六は知らない。
だが確かに、豆腐が出たことにより蔵六の気分は多少高揚しており、いつもなら食事が終わるやいなやすぐに帰ってしまうはずなのだが、
蔵六は豆腐を食べ終わった後も、ただじっと、その場で話が始まるのを待っていた。
「あなたのおっしゃった通り、豆腐とはうまいものです」
蔵六に誘いをかけた張本人・桂小五郎は、そう言ってゆったりと笑みを作った。桂の所作は蔵六とは違い優雅なもので、
そんなところでも蔵六は桂という人物に感心してしまうのだった。桂は頭が切れるばかりか、剣の達人だという。
「日本一」と名高い江戸練兵館の塾頭を務めたほどの男で、京都で暗殺者や幕府方に狙われた時も、信じられないほどの機敏さで遁走した。
剣の心得など持っていない蔵六は、桂と行動を共にするたび、この男の研ぎ澄まされた危険察知能力に感心し、そしてその都度
自分とは全く違う部類の人間だな、と思った。それは自分を卑下しているわけでも何でもなく、ただ純粋に、「住むべき場所が違うのだ」と思っている。
桂が箸を動かす最中、向かいに座っていた男はにやりと笑い、
「桂さんはすっかり長州訛りが抜けちょるなあ。さすがじゃ」
と、ふんだんに嫌味を含んだ語調でそう言った。蔵六は、静かに目を向ける。
男は膝を立て、豆腐には手を付けようともせず、茶をすするばかりであった。どこからどう見てもだらしのない、行儀の悪い格好で
あったのだが、この男がすると不思議と無作法なようには見えなかった。育ちの良さがそうさせるのであろうか。
「高杉、君も食べてみなさい。うまいぞ」
桂は先程の言葉に何を返すふうでもなく、穏やかに笑っている。向かいに座った男・高杉は、ふんと鼻を鳴らして膝の上で頬杖をし、
「茶より酒が欲しいのう」
と、そう言った。この間、蔵六は無言で二人のやり取りを眺めている。桂とは、以前より懇意であった。その桂から「会って欲しい男がいる」と
聞かされたのは、かれこれ何年前のことになるだろう。その男とは、今こうして蔵六の前で不気味に笑っている高杉晋作で、
桂が京都で行方不明になるずっと前から三人で会食を、という話が出ていたのだが、長州の情勢が悪化の一途を辿り、高杉は脱藩の罪で
投獄、桂は行方知れずと、とてもじゃないが三人顔を合わせて食事をする機会など持てなかったのだ。しかし、と蔵六は思う。
高杉のこの態度から察するに、彼は自分と会うのを避けていたのではないだろうか。蔵六は普段から、他人の心の機微に疎い方であるのだが、
あまりに沈黙が続いたので、蔵六にしては珍しく、そんなことを考えてみる。
思い返してみれば高杉は、今日初めて蔵六と対面した時も、笑顔を見せようとも目を合わせようともしなかった。
もっとも、それは蔵六も同じであったのだが。
「あの男は少し、奇矯なところがある」
桂は以前、蔵六にそう言い、
「晋作の発想にはいつも驚かされる。あの男の言動で頭の痛くなることも多いが、私は大いに期待している。きっと、あなたと気が合うと思う」
と笑いかけた。桂は「少し」と言ったが。何が少しだと、蔵六は思う。これは見たところ、かなりの変わり者だ。
他人から見た蔵六も、高杉と同じ「変わり者」であるには違いないのだが、蔵六はそんなことはお構いなしに、高杉を観察し続けた。
「高杉、豆腐は体にもいい」
「酒もいいと聞きます」
「減らず口を」
そう言い、眉をしかめる桂を見て、蔵六はふと目を見張った。こんな風に、誰かと戯れに軽口を叩く桂など、蔵六は知らなかった。
こんな桂を見るのは、蔵六にとって、初めてのことだったのだ。
「お二人の会話は、痴話喧嘩のようですな」
ほうっと、感心したように言う蔵六に、桂は目を丸くし、高杉は「おもしろいことを言うのう」と、大声で一笑した。「村田くんらしくもない」と、桂は戸惑いつつ、
「高杉とは付き合いが長いのでね」
と、ばつが悪そうにそう言った。二人のやり取りを眺めながら、蔵六は本日何度目かの不思議な気持ちに襲われた。
この空間は、変だ。
三人で会食をしてはいるが、高杉は心ここにあらずといった感じだし、桂は桂でいつもと様子が違う。
それに、この二人の掛け合いを目の前で見ていると、自分がひどく場違いな所へ来てしまったような気がするのだ。
それは、桂のいうように二人の付き合いが蔵六よりもずっと長いせいか。それとも他に理由があるのか、蔵六には、わからない。
しばらく座が静かになり、桂の豆腐も無くなった頃、高杉は空になった湯飲みを骨ばった指で弄びながら、ぽつりと言った。
「僕は、海をやる。村田先生は、陸を頼む。それでいいじゃろう」
高杉はそう言い、桂の顔を見る。
「戦は、早く攻めるに限る。こんな所でぼやぼやしちょる暇はない」
桂はしばらく考え沈黙した後、「ああ」と、ただ一言口にした。
「桂さん、あんたの言いたいことは、ようわかっちょる。わかっちょるから、こんな食事会など、する必要なかったんじゃ。話し合いなど、すぐ済む」
高杉が早口でそう言うと、桂は少し、神妙な顔をした。
「村田先生は、戦のことなら何でも知っちょると、桂さんから聞いた。信頼しちょると。それに、戦の大将をやるのは、僕の仕事じゃない」
高杉の吊り上った目が、蔵六を見据えている。蔵六は一つ息を吐いて、
「何でも知ってるわけではありません。が、桂さん、あなたに指名されたのなら、私はやり遂げますよ」
と、かみ締めるように言った。桂は無言で頷く。
高杉が乾いた咳を一度し、呼吸を整えた。三人はしばらく無言でいたが、高杉の咳が何度も続き、やがてそれが大きくなったので、蔵六は立ち上がった。
彼の傍へ寄ると、高杉は右手で制止する。桂の刺さるような目が、高杉に向けられていた。
「私は医者です」
蔵六が言うと、高杉は薄い胸をせわしなく動かしながら、掠れた声で、
「これから仲良くやっていこうと思っちょったのに、先生、そんなことを言うたら駄目じゃ」
と言った。青い唇が震えている。
「僕は医者が嫌いじゃけえ」
高杉、と、桂のたしなめる声が聞こえた。蔵六は高杉の表情を見て、瞬時に、これは相当重いなと悟ったが、何も言わなかった。
高杉に拒絶されたからでも、哀れに思ったからでもなく、ただ、桂の前では言うべきではないと思ったのだ。
話し合いも終わった、さあ、酒と女を呼ぼうと高杉は言ったが、とてもじゃないが馬鹿騒ぎできる体調ではなく、その晩はこれでお開きとなった。
終わるやいなや、さっさと立ち上がり座を後にしようとする蔵六に、高杉は、
「村田先生」
と声をかけた。蔵六が振り返ると、高杉は未だ忙しく上下する喉仏をさすりながら、「二人で話しを」と言う。
桂は気遣わしげに立ち止まっていたが、やがて腰を上げ、すっと、音も無く座敷から出て行った。彼は、立ち姿も様になる。
「何か」
簡素にそう言う蔵六に、高杉はふ、と破顔した。彼は部屋の襖を開け、妓楼から出る桂の姿を見下ろす。
桂の持つ行灯が、ぼんやりと夜道を照らしていた。
高杉は窓辺に体を傾け、しばらく夜風に身を任せていた。蔵六は彼の目の前に座り、胡坐をかきながら、この人はこんなに細かったかと自問した。
夜の闇のせいか、それとも、あの男がこの場にいないからか。今の高杉はおかしなくらい、弱くか細いものに見える。
「僕はもう長くない」
高杉は、目線を桂に合わせたままそう言った。階下では宴会が始まったのだろうか、三味線の音と、芸子の艶やかな歌い声が聞こえる。
「村田先生、あんたはいい医者じゃと聞く。わかるじゃろう、僕はもうじき死ぬ。じゃけえ、あの人を」
頼みますと、高杉は言った。
「あの人を、できるだけ、支えてやってくれんかのう。村田先生は、あの人の理想を、実現できる」
僕にはもうできんことじゃ。
高杉の最後の言葉が、ひどく寂しげに聞こえたのは気のせいだろうか。顔は、笑っていた。妓楼に入って来た蔵六を見つめた時の、
捕らえどころのない、人々が言うような「狂夫」の目では決してなかった。どこか、諦めにも似た悲しみが、そこにはあった。
言われなくともと、蔵六は思う。蔵六を見つけてくれたのは、他ならぬ桂で、どこまでも蔵六を信じぬいてくれたのも、桂であったので。
「承知した」
蔵六が言うと、高杉は満足そうに笑う。高杉の顔は既に、皆の知る「奇兵隊総督」のものに戻っていた。
「じゃが、高杉さん、あなたは私を嫌いでしょう」
そう言い、蔵六が高杉の顔を見つめると、高杉はじっと、行灯の明るい光に照らされた桂の横顔を見下ろしながら口を開く。
「桂さんはあんたが好きじゃろう。僕がもうじき死ぬ運命になかったら、それであんたが何の才能もなかったら」
高杉はにっと、顔中で笑った。
「そりゃあ、あんたを斬っちょったな」
ふむ、と、納得したように蔵六は呟いた。三人の会食の場で感じた違和感を、不思議の理由を。人々の感情を探ることのない蔵六だが、
今日、高杉の心の行方をかいま見て、人を思うということは通り一遍等のものではなくて、悲しみや憎しみや愛しさや苦しみが混じって
いるものなのだなと、そう理解した。ともすれば、蔵六は場違いな思いを高杉に向けられたわけだが、そこは「変わり者」で感情の波の
乏しい蔵六であったから、別段嫌な気はしなかった。むしろ、大切な何かを一つ学んだような。そんな、奇妙な気持ちになっていた。
蔵六が妓楼を出ると、桂が彼に行灯の光を当て、「晋作と話が弾んだようで」と、にこにこと笑いながら言った。
「気が合うでしょう。話せばきっと、打ち解けると思っていた」
桂がやけに嬉しそうに言うので、蔵六は「何を呑気な」と思いながらも、
「まあ、話が合うといえば合いますか」
と、曖昧な返事をした。「そうですか」と、桂はなおも嬉しそうだ。
蔵六は珍しく、桂の横で密かに笑い、あんたを慕ってるというところだけは話が合うかな、と、そう思った。
「村田くん」
桂は柔らかな声で、蔵六の名を呼んだ。妓楼の光が眩しい。高杉はまだ、あの中にいる。
「くれぐれも、晋作の体を気にかけてやってくれ」
暗闇の中、遠くを見つめながらそう言う桂の声を隣で聞き、蔵六は今更ながら、桂が高杉のことを語る時、
「晋作」と、親しげに下の名前で呼んでいることに気がついた。ああそうかと、蔵六はまた一人、納得する。
桂が「晋作」と彼の名を語る時。彼は、ひどく、優しい声を出す。
蔵六は桂と共に夜の道を歩きながら、これから私はあなたの手足となり戦おうと、そう誓った。
それは、高杉のためでも何でもなく。その誓いは全て、蔵六本人の願いであり、彼本人の思いであった。
未だ高杉のいる妓楼から、三味線の美しい音色が聞こえる。
「晋作が歌っちょる」
桂が微笑んでそう言うので、蔵六は音色に耳を澄ませた。痛々しいほどに切実で、美しいその音を、蔵六はじっと聞き入った。
蔵六は生まれて初めて、人の奏でる音を聞いて悲しいと、そう思ったのだった。
end
村田蔵六と桂さんと晋作。桂さんは相変わらず?モテモテということで…。