暗闇から手を伸ばせ
「上海」と書かれた一枚の紙を、晋作は懐から取り出した。
文字を書いた主は周布政之助で、彼らしい大きく豪快な字だった。
長井雅楽を暗殺しようと目論んだ晋作達の情報を桂小五郎が聞きつけ、周布と手を打って晋作を上海へ派遣したのは数ヶ月前のこと。
晋作さえ「暗殺取りやめ」と言えば、久坂や他の同志達も引き下がると思ったのだ。
かねてから異国へ行ってみたいと思っていた晋作はすぐに「上海行き」に乗り、桂と周布の策とおり、長井雅楽暗殺計画は
取りやめになった。その長井も、今はもう過去の人となってしまったが。
晋作は当時のことをふと思い出し、あの時も周布さんは味方じゃったなと、一人ごちた。
切ったばかりの髪の毛が、京都の生暖かい風に吹かれている。当時としては珍しいザンギリ頭をした晋作を、往来の人々は奇妙なものを
見るような目つきで見たが、晋作は一向に気にしなかった。晋作は、他のことで頭がいっぱいである。
苛々する。晋作は小さく呟いた。
この時期の晋作は、何もかもがいやになり、髪の毛を短く刈り、十年の暇乞いを出した頃であった。
何故、皆わかってくれないのか。何故、邪魔をするのか。
道行く人々の雑踏も、そもそもの攘夷という思想も、故郷から共に上ってきた同志達のことも。
全てが晋作の神経を逆撫でし、投げ遣りな気持ちにさせられる。
将軍も、幕府も、長州も、何もかも滅びてしまえばいい。何もかも滅びて、灰になってしまえばいい。
朝廷への周旋や、仲間達の説得や、数々の巧緻や陰謀など、今の晋作には馬鹿らしいとしか思えなかった。
上海へ行って見て来たことといえば、欧米列強の軍備力のすさまじさであり、その文化の栄華さであり、
清国で虐げられている人民の哀れさと無気力さであった。日本も、そうなるかもしれない。いや、このままでは
確実に侵略され、清国と同じ道を辿ることになるだろう。事は急を要するというのに、未だこの国では何も変わっていない。
晋作は黙々と歩いた。細い路地と通り、幾つかの橋を渡り、頭上の太陽を見ることもなく、人々の顔を、変わりゆく街の表情を
を見ることなく、ただ下を向いて歩いた。髪を切って露になった首筋に陽が当たり、色のない肌を赤く染めた。
自分の邪魔をする物は、全て排除してしまいたい。
そうだ、ころしてしまいたい。
どす黒い感情が晋作の中で暴れまわり、思わず吐き気を覚える。晋作は幼い頃から病弱で体が弱かったのだが、最近よく夜中に
目が覚め、激しく咳き込むことがあった。晋作は薄ぼんやりと、自身の胸に巣食う病魔の存在を感じてはいたのだが、
だからといって医者に行こうとも、療養しようとも思わなかった。いっそのこと、この胸につかえる赤黒い血を、この感情と
共に吐き出してしまいたい。まっさらな京都の川という川に、自身の血を流してしまいたい。
長州に、薩摩に、会津に。いや、国中に。
晋作は吐き気を何とか堪え、目的地へと歩を進めた。
京都に来たばかりの頃は風流でよいと思った柳の木も、ゆらゆらと絶え間なく揺れ動く柔らかな葉が、周旋ばかりで何の変化も
刺激ももたらさない藩の連中とだぶって見え、晋作は思わず柄に手をかけ、枝を一本切り落としてしまった。
乾いた音を立て、生命を失ったかのような枝が、晋作の足下に落ちた。それでも、切り落とされた枝のことなど既に忘れてしまった
かのように、柳の木は先程となんら変わりない姿で風に吹かれている。突然抜刀した晋作に、街の人々は声を失った。
髷もなく、着流しに長刀を帯びた晋作の風体は、ただ歩いているだけでも奇妙なほどに目立っていたので、今の行動は人々の関心を
一気に集めた格好になり、「今流行の浪士か」だとか、「何藩の奴や」と、ぼそぼそと噂話が立ち始めていた。
晋作にとって、そんな街の声も、切り落とした柳の枝も、何もかもがわずらわしかった。
晋作が無遠慮に襖を開け、「失礼します」と低い声を出すと「やっと来たか」と部屋の主は答えた。
「ほれ、はよう座らんか。お前の好きな酒も用意しちょる」
晋作は声に従い、のっそりとその場に正座した。目の前に白い猪口を出されたので、晋作が手に取り、ようやく顔を上げると、
「恐ろしい顔をしちょるのう」
と、対面に座っている周布政之助は、大きな声で笑った。
周布はひどく無愛想だと、まだ彼と懇意になる前に噂話で聞いたことがあった。いつも眉間に皺を作り、口を引き結び、
のそりのそりと歩く。そのくせ、頭は恐ろしいほどに切れ、勇気もある。晋作は噂話だけでしか知らなかった周布を好意的に
見ていたし、頻繁に話をするようになってからは、周布は桂や晋作、久坂など、自分が見込んだ相手にはまるで本当の兄の
ように面倒見がよく、大らかであることがわかった。晋作はもちろんのこと、久坂も他の同志達も、周布のことを慕って
いたので、周布は自然と、攘夷派青年達の親分のような形になっていた。
「いつ、京を発つんじゃ」
周布が、既に酔いの回った赤い顔を晋作に向けた。
「いつでも。準備が出来次第発ちます」
「お前はいつも、せっかちじゃのう」
周布は豪快に笑い、晋作の猪口へ酒を注いだ。白い魅惑的な液体が、並々と目の前で揺れている。
「十年とはまた、途方もない」
周布はふと真顔になり、小さく呟いた。
「お前が一度言い出したら聞かんことくらいわかっちょるけえ何も言わんが、久坂は何と言っちょる」
晋作は酒を飲み、一息吐いた。久坂のことを、同志のことを思い出すと、体内で何かが蠢くのがわかる。
「さぁ。勝手にしたらええと、言いたいんでしょう」
「でしょう?告げてないんか」
「告げて、何が変わります」
晋作の物言いに、周布は苦笑した。さては晋作、拗ねちょるな。
「晋作、お前の気持ちはようわかる」
周布は、酒を手に穏やかに笑い、そう言った。「わかりすぎて、どうしようもなくなる時がある」
晋作は顔を上げない。黙って、空になった猪口を見つめている。
「お前と俺は、似ちょる」
周布は言い、晋作の猪口へ酒を注ぎ足した。周布はニタニタと笑っている。
そういえば、久坂と松陰は似ていた。精神の真っ直ぐな所も、一見冷静で穏やかそうに見えて、実は猪突猛進なことろも、
情の厚さでは松陰の方が上であるかもしれないが、二人の性質は本当によく、似ていた。
それは松陰も理解していたのだろう、久坂と晋作は「松下村塾の双璧」と呼ばれ、松陰自身も「暢夫、暢夫」と晋作を引き立ててくれたが、
久坂が「我が妹を嫁に」、という松陰たっての希望で文を娶ったこともあり、やはり彼が松陰から一番愛されていたのだろうと
晋作を含め、門下生全員がそう思っていた。晋作は、しょうがないと思っている。
久坂が松陰と似ていることは晋作も気づいていたし、久坂ほど、自分は松陰の思想を真っ直ぐに、熱烈に受け継いだとはいえない。
それに、松陰の久坂への接し方を入門当初から目にしていた晋作にとって、久坂が自分より師に愛され期待されているということは、
もはやどうしようもない、言い換えるならそれは、あの塾において当然の出来事だったのだ。
だからこそ、周布が「俺とお前は似ている」と言ってくれることが、晋作は嬉しかった。
この大らかで肝の据わった先輩は、晋作の行動を唯一頭ごなしに否定したりせず、「面白い」と言ってくれる人物であり、
また、理解しようと努力してくれる人だった。晋作は師である松陰が亡くなってからというもの、誰よりも、周布に
自分の考えをわかってほしいと思っていた。周布が諾と言ってくれるなら、それだけでどこか、嬉しかった。
しかしながら周布は、確かに晋作を特別に理解し、可愛がってはいたけれど、彼が理解示すのは晋作に限ったことではなく、久坂も吉田も
入江も志道も、更には年若い伊藤俊輔や山田市之丞のことも同じく庇護し、助けてやっていたから、晋作は密かに、おもしろくない。
だからといって、周布の前でまさか、「皆と同じに扱うのはやめろ」などと言えるわけがなかった。
それではまるで、嫉妬に狂った女のようではないか。
晋作は、自分のこういう所、何もかもを独占したいような気持ちになったり、それが叶わないと知るとひどく寂しくなったりする性格を
理解していながら、それが嫌でたまらなかった。けれど、そういった弱さを隠せば隠すほど、底なし沼にはまっていくような沈鬱な気持ち
になったりする。そして今はちょうど、晋作にとってそういう頭の痛い季節なのだった。
「晋作、お前の考えを聞かせろ」
晋作は顔を上げ、少しだけ口を開いた。乾いた喉に酒を流し込み、それからゆっくりと話を始めた。
声を出すと、何やら止まらなくなってしまい、晋作は一気に思いをぶつけた。周布にこうして話をするのがひどく懐かしいことのように思える。
晋作が話をしている間、周布は黙って耳を傾けていた。
気分が高揚する。
晋作が話終わった頃、周布は顎に手をやり、考える素振りを見せた。ひとしきり沈黙した後、
「十年の間、俺が舞台を作ってやる。十年経ったら、お前がその舞台に一人で立って、勝負せえ」
と言って、にわかに笑みを作った。晋作は、何も答えず、ただ周布の、酒の熱で浮かされた赤い顔を見た。
切れ長の鋭い目を、大きな口を、無骨な喉を、晋作はじっと見た。
嬉しいと、そう言ってしまいそうな自分を律するため、晋作はひたすら、周布の顔を睨みつけていた。
寺の鐘が低い音を出して鳴り、周布は晋作の視線に耐えかねて「お前の目が熱烈すぎて困るのう」と言うので、晋作はこの日初めて破顔した。
「十年会わんのじゃ。何か俺に託すことはないか?」
周布は晋作の傍ににじり寄り、肩に手を回した。酒の匂いがする。
「託すことはありません。でも」
「でも?」
「その代わり、お願いがあります」
「願いとは?」
赤い目で、不思議そうな顔をする周布を見て、晋作は唇の端を吊り上げて笑った。
「周布さんの髪の毛を一房、下さい」
「髪の毛?貰ってどうする?」
「上海で聞きました。満月の夜、死んだ人の髪の毛に願をかけ、清めれば、命が蘇ると」
「はは、物騒な」
周布は大きな声で笑い、すぐさま刀で髪の毛を一房切り落とし、晋作に投げた。
「俺は死んでまで、蘇りたくはないがのう」
「周布さんは長生きしなさそうじゃけえ、僕がこれを形見として持っちょりますよ」
「あ」
と、晋作は言って飛び起きた。汗で髪の毛が額にはりついている。夏でもないのに、この汗はなんだ。
懐かしい、夢を見た。周布の、周布政之助の夢で。
周布が自害したという報を、晋作は萩の自宅で聞いた。
晋作はおもむろに立ち上がり、戸棚の中から周布の書いた「上海」の文字と、紙に包んだ彼の一房を陽にかざして眺めてみる。
文字は少し墨が黄ばんではいたが、周布らしい大胆な筆遣いと心意気は、少しも色褪せてはいなかった。
彼の黒々とした髪の毛も、また。この髪の毛は、切り落とされた時点で周布の物ではなく晋作の物で、そしてその瞬間から時が止まっている。
今の長州の政治状況からいって、周布がたとえ自害しなかったとしても、いずれ弾劾され、殺されていたであろう。
周布は何よりも辱めを受けることを嫌った誇り高い男であったから、恥を受けるくらいならと、自殺の道を歩んだのだ。
こんなことなら。晋作は、ぼうっとした頭で思う。
自分の手で、周布を殺してしまえばよかった。周布の気持ちは、よくわかる。わかりすぎるほどによくわかる。
ただ、今はもう、晋作があの時より少し、変わってしまったので、僕だったらきっと、脱藩して逃げ回るなと、晋作は思った。
どうせ脱藩して罪を得るなら、その前に周布を殺してしまえばよかったのだ。
誰よりも晋作を理解し、期待してくれた周布を。俺とお前は似ていると、そう言った周布を、晋作の手で、殺してしまえばよかった。
晋作はふと、京の寺の鐘を思い出す。低く低く鐘の音が二人の座敷に響いたとき、晋作は周布を、誰よりも欲していた。
晋作のことだけを見、期待し、励ましてくれるもう一人の周布政之助が、この世にいたらいいのにと、晋作は痛切に思ったりもした。
今は萩で、鐘の音がするでもなく、ましてや周布が目の前にいるわけでもない。
あの人はもう、この世にはいない。
周布を、殺してしまえばよかった。どうせ何も奪えないのなら、晋作自身の手で殺して、そうして周布の最後だけを奪ってしまえばよかった。
何もくれないのなら最後だけ、僕にくれたらよかったのに。
そんなことを思いながら、晋作は周布の文字が刻まれた半紙と、彼の黒い髪の毛を切り刻み、空へ飛ばした。
青すぎる空に吸い込まれるかのように、二つのかけらが散っていく。
晋作はどこか、体の半身がもぎ取られたような気がし、静かに目を閉じた。
暗闇の中から手を伸ばし、晋作を引き上げようと努力してくれたのはいつも周布だった。
けれど、僕はあの人の暗闇を壊すことはできなかった。
晋作は瞼を開け、さぁ、逃げようかと伸びをした。
あなたが呑み込まれた暗闇から、僕は逃げる。どんどん逃げる。
逃げて逃げて逃げ回って帰ってきたならきっと、あなたの作った舞台が、僕を待っている。
end
晋作と周布さん。周布さん大好きなんです。なので、晋作さんも周布さんが大好きなんです。何だかいろいろ間違えました…。