君たちがいて僕がいた



松下村塾は平和である。狭い平屋の中では若き精鋭達が熱い議論を交わし、畑では師の松陰と共に農作業に明け暮れる。
秋の松下村塾はまさしく平和そのもので、夏の暑さもいえ、幾分過ごしやすくなった昼下がり、爽やかな風が
松本村を吹き抜け、夢に向かい勉学に励む若者達の背中を押した。松陰が腕いっぱいに野菜を抱え、納屋の中へ入る頃、
辺りは夕焼けで赤く染まり、ちらほらと、家路につく者もいた。すっかり暗くなり、平和な松本村が闇に包まれた秋の夜、
吉田栄太郎をして「暴れ馬」と言わしめる男がやって来る。薄明かりの中、師の記した「飛耳長目」を読んでいた栄太郎は、
ふいに訪れた大きな足音に顔を上げた。暴れ馬・晋作は、納屋で妹と共に仕事に励む松陰へ丁重に挨拶をしたが、
他の塾生には声すらかけず、ずかずかと不機嫌な顔で上がってくる。いつもはやって来るなり二人向き合い、長々と話始める
玄瑞と晋作が、今日はまだ一言も会話を交わしていない。玄瑞はといえば、塾生らとの議論に熱中しており、晋作の来訪に
気づいてはいないようだった。はからずも玄瑞に無視をされたような格好になった晋作は、ますます眉間に深い皺を寄せたが、
玄瑞は未だ、気づかない。晋作の吊り上った眉をちらりと見、栄太郎は心の中でくすりと笑う。大方、玄瑞と口論でもしたのだろう。
どちらも先に折れるような柔和な性格ではないが、特に晋作は今まで師・松陰と、彼が永遠に頭が上がらないであろう両親、
藩侯父子以外に頭を下げたことなどあるのだろうかと思わせるほどの跳ねっ返りなので、晋作に非があろうとなかろうと、
自分から玄瑞に謝るようなことはしないだろう。これは長期戦になるかもしれんぞ、そう思うと、栄太郎はおかしくてたまらない。
我関せずとだんまりを決め込み、黙々と「飛耳長目」を読む栄太郎の耳に、二人の罵声が飛び交って来るのは数分後のこと。
今にも剣を抜きそうなほど睨みあった二人を、栄太郎は苦い顔で見上げる。
せっかくいい所まで読んだのにと恨めしく思いながら「飛耳長目」を閉じ、しばらく二人のやり取りを見つめていたのだが、
松陰がこの場にいないのをいいことに、二人の言い争いは白熱する一方で、もはや、どちらが正しくてどちらが間違っている
かなど、第三者には判断しかねる状況にあった。おろおろし始める塾生達を少しだけ気の毒に思いながら、本を読むどころの
騒ぎではないこの部屋を出ようと、栄太郎は重い腰を上げた。しかし、栄太郎が部屋を出て行くよりも先に、晋作が野生の
動物のような俊敏さで部屋を飛び出していくことになる。きっかけは塾生の一人がぽつりと言った、
「久坂さんがかわいそうじゃ」
という、何気ない一言だった。


今日は望月だ。そんなことを思いながら、栄太郎は歩いた。
りりりと、畑からは虫の鳴き声が聞こえる。風が吹くたびに、遠くの森が低い音を鳴らした。森の中はすでに、冬へと向かう
準備で忙しいのだろうと、栄太郎はぼんやり考えている。前を歩く小柄な男の後姿は、夜の闇に今にも溶けてしまいそうだった。
栄太郎は小脇に抱えた「飛耳長目」を持て余しながら、何故僕がこんなことを、と溜息を吐く。
晋作をなだめ、連れ戻すのは、いつもは入江九一の役目だった。家庭の用事とかで昼過ぎに塾を後にした入江を恨めしく思いながら、
栄太郎は無言で歩き続けた。気性の激しい晋作に意見できる塾生など、入江と玄瑞を除いては自分しかいないということを、
栄太郎は嫌というほどわかっていたし、晋作が塾を飛び出した後、「すまん」と玄瑞に頭を下げられてしまったので、
「僕は知らん」と放っておくわけにはいかなかった。晋作のあほうめ。栄太郎は心の中で毒づいた後、いつもの入江を見習い、初めから二人の
喧嘩を面白がらずに止めに入っていればこんなことにはならなかったのにと、少しばかり後悔をした。
松本村の田舎道は奇妙なほど静かで、二人の歩く音、葉を踏みしめる音がやけに耳に響く。
晋作は、栄太郎が後を追っていることに気づいてはいるはずだが、何も言わなかった。
二人、どのくらい無言で歩いただろう。気づけば深い森の中だった。何百年と年を重ねたであろう太い幹が、二人の周りを取り囲んでいる。
木々のざわめく音に混じって、どこかで獣や鳥の鳴き声がし、二人は思わず立ち止まった。
「何じゃ。いい加減ついて来るな」
低い声でそう言う晋作に、今更何を、と思いながら、栄太郎がその薄い背中を睨みつけ、
「玄瑞に人気があるのは昔からじゃ。お前はないが」
と言うと、痛い所をつかれたのか、晋作は肩を震わせる。
「そんなことでやり合ったんじゃない」
「ほう、じゃあ、何じゃ」
「お前に言うことじゃない」
「また、お前、孤立しちょったな」
栄太郎が言うと、晋作は黙り込む。しまったと、栄太郎は思わず唇を引き結んだ。
塾内で晋作と玄瑞とが口論をすると、決まって他の塾生は玄瑞の味方をした。栄太郎と入江はどちらの味方にもならなかったが、
若い者たちは 判で押したかのように「久坂さん、久坂さん」と言って玄瑞の方に肩入れをする。
理由は簡単である。玄瑞は晋作に対しては頑固で強情な所もあったが、他の塾生に対しては至って物腰柔らかで実直で、
そして彼の風貌も絵に描いたような美男子であったから、玄瑞の熱弁には誰も彼も惹きこまれた。
対して晋作は塾生らに評判がいいとは言い難く、その無愛想な態度、上士出身という塾内では異質な毛並み、
激越な論法と、どれを取っても玄瑞の人気には到底及ばなかったし、案の定、塾生たちは晋作を遠巻きに眺め、中には
「上士の子は上士らしく、明倫館に大人しく通っとけばええものを」と陰口を叩く者もいた。
栄太郎は晋作のいかにも「我侭なお坊ちゃん」といった性格を、好きでもなかったが特別嫌いでもなかったので、影でこそこそと
悪口を言う者達を軽蔑こそしていたが、だからといって、晋作の絶対的な味方、というわけでもなかった。
晋作の発するひらめきには一目置いていたし、彼の尖った性質も理解をしてはいたのだが、入江のようにその都度追いかけて
連れ戻すなど、まっぴらごめんだと思っていた。入江の真似事など慣れないことをしたものだから(これは言い訳だが)、
つい、口が滑ってしまったのだ。
晋作は振り向き、じろりと栄太郎の目を見据え、「そんなことはわかっちょる」と言った。
「そんなの、いつものことじゃ」
晋作は苦りきった顔で下を向く。そんなの、わかっている。
そうだ、多分、ただ、玄瑞にわかってほしかった。自分の考えを、思いを。共有したかっただけで、そしてもし理解してくれたら
それほど嬉しいことはないと思っていた。他の誰に理解されなくとも、それでよかったのに。
慣れちょる、と晋作は吐き捨てるように言って、背を向けた。二人の間の枯れ草が、かさかさと乾いた音を鳴らす。
今は何時だろう。家の者が心配するだろうか。
ふと上を見上げると、黒い木々の間から先程、松本村の道中で眺めた望月が二人を見下ろしていた。
あの時と、まったく変わらぬ位置で、変わらぬ姿で、望月は物言わず、二人を見つめている。
栄太郎は月に照らされた晋作の後姿を見ながら、たまには入江を見習おうかと、少し思う。月が秘密にするというのなら。
「晋作、お前、慣れちょると言ったが、お前は一人で何が出来る?玄瑞のように、人望もないお前が」
晋作は低く、「うるさい」と言う。
「お前は畑仕事なんかせんけえわからんじゃろうが、いくら手が早くて優秀な奴でも、耕して種まいて育てて収穫なんて、
一人じゃ絶対できんのじゃ。それとおんなじで、お前には出来んことがいっぱいある」
晋作は、ゆっくりと振り返り、険しい顔で栄太郎を見つめている。望月が、二人を照らす。
栄太郎の握り締めていた大切な「飛耳長目」が、秋風に揺られ音を立てた。
「お前、ここで遭難でもしてみい。金も家も食料も何もない森で生きられるか?お前に猟ができるんか?」
できるわけないだろう。晋作は、恵まれた家の子で、自分とは違う上士の子で、将来があらかじめ決まっているような家の子で、
食べ物がないということの苦しさや、武士に虐げられる者の悔しさや惨めさなど、晋作にはわからない。
でも、彼はそれでいいのだ。きっと、それでいい。だから。
「じゃけえ、僕がいる。お前ができんことは、僕がやる」


言い終わった途端、恥ずかしさと後悔で、栄太郎は顔を歪めた。
慣れることはするもんじゃあない。この後どうしたらいいか、わからない。
黒い空をほんのりと明るく染める望月が、森の中を優しく照らしていた。
晋作は長い間押し黙っていたが、ふと高らかに笑って、「早く帰るぞ」とそう言った。
晋作の顔は、心なしか明るい。栄太郎は端正な容貌を苦虫を噛み潰したように歪め、ああ、本当にこいつ、憎たらしい、と呟いた。

暗い暗い森の中、二人は並んで歩を進める。その後二人は道に迷い、お互いの家に着いたのは朝方で、晋作は小忠太に大いに
絞られたという。栄太郎はといえば、昨夜歩き続けたせいか、家に帰り布団に入るなり、勢いよく寝入ってしまった。
その日の夕、村塾にやって来た晋作は、昨日の喧嘩が嘘だったかのように玄瑞といつも通りに話始めた。
昨日の疲れからか欠伸をかみ殺す栄太郎に、入江は「あの二人、何かあったんか?」と、やはり鋭く二人の変化を見抜いたのだが、
栄太郎は曖昧な返事をしただけで何も答えなかった。昨日読みかけていた「飛耳長目」を開き、目を落とした時、本に影が出来る。
栄太郎が顎を上げると、近くに憎たらしい狐が一匹。狐は口を開くなり、こう言った。
「いつか遭難した時は、お前が僕を養ってゆけ」

秋の松下村塾はやはり平和である。




end




栄太郎と晋作。情けないようでいてふてぶてしい晋作さんと、しっかりしているようでお茶目な栄太郎さんということで…。