いやなひと
高杉が下関の芸子を身請けしたと聞いたのは、ほんの数日前のことだった。
白石正一郎の屋敷へ向かい、離れへと通された時、例の芸子が勢いよく襖を開けた。
「だんさん!」
顔中で笑っているかのように、そして飛びつかんばかりに私の元へ駆けてきた女は、私がむっつりと
押し黙っているのを見て、「あ、ごめんなさい」と、小さく頭を下げた。
「高杉さんは」
「へぇ、どこかへ行かれたまま、まだ戻ってきはりません」
ゆったりとした口調でそう告げて、女は窓辺に腰掛けた。客が来ているというのに、何を出すわけでもなく、
ただぼんやりと外を眺めている。女の名は確か、此の糸といったか。高杉は「おうの」と呼んでいる
らしいが、なるほど、皆が「何故高杉はあの女がいいのか」と噂している通り、別段美しいわけでも
機転が利くわけでもなさそうなこの女の、どこを気に入ったのか私には見当がつかない。
変わり者の高杉にしかわからないこの女の良さが、どこかにはあるのだろう。
私は腰を下ろし、高杉が現れるのを待った。呼び出した当の本人が不在とは、相変わらずいいご身分だ。
「高杉さんはよく出かけるのか」
私が窓辺に座るおうのに話を振ると、おうのは小さな頭を少し振り、
「よく出かけはります」
微笑みながら、そう言った。この女が一言二言喋るうちに、せっかちな高杉なら痺れを切らしそうなものだが。
「待ってる間はずうっと、こうして外を見てるんどす」
おうのは楽しそうにそう言うが、私は何故か、やりきれないものを感じた。体の中で、何かが蠢く。
おうのは高杉が必ずここへ戻ってくると、そう確信している。無心で、高杉を待っている。高杉はあの性格だから、
おうのにどこへ行くとか、何をしに行くとか、目的を何も告げていないのだろう。しかしおうのは、何を疑うでも
なく、高杉をただ、待っている。高杉のことだ、井上や伊藤等とただ馬鹿騒ぎをしているだけかもしれない、
もしくは、他の女にうつつを抜かしているのかも。正妻である、雅子の元へ戻っているのかもしれないのだ。
「高杉さんに惚れているのか」
「へえ」
おうのは、口元を押さえ、笑いながらそう答えた。高杉はどうだろう。この女に、心底惚れているのか。
それとも、ただの気まぐれか。私にはわからない。この女は、疑うということをしないのだろうか。
私はただぼうっと、ゆるやかに流れる街並みを見ながら、高杉を待ち続けるおうのを見、口を開いた。
「あんたは付き合いが短いからまだわからないかもしれないが、高杉さんは苦労しらずのお坊ちゃんで、欲という
ものがまるでない。出世欲とか、名誉欲が。けれど、自分の好きになった人や物は、必ず手に入れるんじゃ。
あんたは今こうして、高杉さんに身請けされ、高杉さんの妾になっているが、高杉さんにはれっきとした妻もいれば
子もいて、しかもあの人は気が多いから、またあんたと同じように、どこぞやの芸子を身請けすると騒ぎ出すかもしれん。
例えばあの人は雅子という萩城下で一二を争う美しい妻がいるが、夫婦になったと同時に雅子はあの人
一人だけのものだが、あの人は夫婦になろうと妾を持とうと、誰かと兄弟の契りを結ぼうと、隊の者達がどれだけ
慕おうと、誰かのものにはならんのだ。あの人はそういう人で、いつどこに行くか、何を考えてるか、わからん
ような難儀な人で、まるで風来坊だ。何も、掴めない。あんたはそれを、それを」
それを。
私が一気に捲くし立てると、おうのは黙って、話を聞いていた。しかしおうののその表情は、私の話に絶望するでも
なく、悲しむでもなく、あるがままを素直に受け止めようとする、そんな顔だった。
「うちは、そんな、難しいことはわかりまへんけど、あの人が身請けしてくれた、それだけでもう、十分」
体の中から、力が抜けていく。何故、こんな話をおうのにしたのか。初対面のこの女に。なぜ。
おうのは、何も望んではいない。高杉に、何を望むでもなくただ、こうして待っている。
ならば私は?私は高杉に、何を望む?
ああ、吐き気がする。
「用事を思い出したのでまた来ると、高杉さんに伝えてくれ」
私は立ち上がりながらそう言い、おうのに背を向けた。おうのは不思議そうな顔で、私を見上げている。
「あの、お名前は」
「山県だ。山県、狂介」
おうのは必死に覚えようとしているのか、小さな声でやまがた、やまがたと、そう呟いている。
部屋を出て行こうとした私に、おうのはゆるやかに笑いながら
「山県はんは、あの人のことを、よおくご存知なんどすなぁ」
そう言った。
「だからお辛い思いをしてはるんどすか」
おうのの言葉を聞いた途端、私はかっとして、その場におうのを押し倒し手篭めにしてやろうかとさえ考えた。
そうすれば、高杉はどんな顔をするだろう、どんな思いをするだろう。
結局は、私はおうのを手篭めにすることもなく、そしておうのの質問に肯定も否定もすることなく、高杉が逝った今も、
こうして生きている。あの時おうのが私に問いかけた言葉に、今なら答えることができるだろうか。
私は随分長く生きてきたが、年を重ねれば重ねるほど、高杉に対する思いが複雑になり、何重にも折り重なり、
歪な形となって心の奥底へ沈殿していくのがわかる。
私が若かったあの頃、あの瞬間の思いを、今はもう掘り起こすことさえできない。
ただ覚えていることは、私はあの頃、おうのに、雅子に、井上や伊藤、木戸、久坂、吉田、入江、山田、周布、
それは白石も例外でなく、高杉の目に映るもの全てに嫉妬していたのだ。
高杉が目に映すもの、すべてに。
全てが憎く、歯痒く、高杉という男を取り巻くもの、形成しているもの全てに嫉妬した。
そう、高杉本人にさえも。何にも、渡したくなかった。
今となってはただ、高杉を憎らしく思うばかりで、そういうふうにあの男を思い浮かべると憎悪と同時に頭が、腕が、
足が、心が、体すべてが痛んで、年を取るごとに痛みは増すばかりであり、その痛みを忘れることなど死ぬまでない
のだと思うと、何故か安心した。そうして私は、あの時のおうのへの返答は墓場まで持っていこうと、そう決心するのだった。
end
…ひねくれ者山県さんと、明るいおうのちゃん。一番ひどいのは誰でしょうか。