いつでも夢を
あの頃より一回り小さくなった庭を眺め、白石正一郎は縁側に足を投げ出した。
春の訪れを呼ぶ梅の花が、庭先でひっそりと咲いている。以前の白石邸は、それこそたくさんの木々に囲まれ、四季折々の花が咲き乱れる
立派なものであったのだが、今、正一郎の目を慰めているこの庭は、「箱庭」と呼んでも差し支えないほどの小さく、簡素なものだった。
正一郎はそれでも、あの頃と何も変わらず咲き続ける小さな梅の花に心の安寧を覚える。
膨大な借金の返済に回すため、美しい庭の大半を削ってきたのだが、たった一つの梅の木が生きるこの空間だけは、
他の誰にも譲るわけにはいかないのだと、正一郎は決めていた。
家族は、嫌がった。
誰のせいだと思っちょるんですか。はっきりと正一郎には告げないまでも、家族の非難の目は正一郎とて理解出来る。
確かに、自身の夢や理想への実現の為に投資を続け、ついには何の見返りもないまま白石家は潰れてしまったのだが、援助をすることにより
己の理想を貫いた正一郎はいいにしても、その家族たちは最後まで、「何のために我が家はここまでやってきたのか」と憤っていた。
もっともなことだと正一郎は思う。長州藩の志士をはじめ、土佐・薩摩・肥後、その他脱藩浪士らなど、数々の勤皇の志士のために宿を提供し、衣服を整え、
時には食事を与え、そればかりか彼らが一文無しだとわかると、快く金を持たせ、甲斐甲斐しく世話をした。
長州のいわゆる庶民の中で、彼ら維新の志士達を影から支えた一番の功労者は、いうまでもなく白石正一郎とその一族であったろうし、
そういった多大な功績に対し現在中央政権に居座る政治家達が彼ら一族を表彰し、何かしら栄誉を与えるのは当然のことのように思えた。
実際、正一郎の家族や側近たちはそれを望んでいたし、ましてや当たり前のことだと思っていたのだが、文明開化ももはや過去のこととなった現在、
白石家に対する恩恵は何一つ与えられていなかった。家の財政は傾くばかりであり、一時は長州で知らぬ者などいないほどの大富豪であった彼ら
一族の華々しさなど、まるで夢の出来事だったかのように、今の白石家は質素なものに変わっており、過去を知る者が見れば「これがあの白石邸か」と驚くほど、
慎ましやかなものになっていた。あの頃まさか本気で倒れるとは、正一郎を除いた家族の誰しもが思っていなった幕府が潰れ、薩長土を中心とした
新しい時代が幕を開けてから早数年、確かに、国家的成長は明治を迎えてからというもの、日進月歩の勢いで進化しているのかもしれないが、
庶民の生活はといえばにわかに向上したとは言い難く、これでは何の為に今まで惜しみなく金をつぎ込み、彼ら維新志士達を援助してきたのか
わからないと、一族の者が嘆くのもやむをえないことだった。家族のほかにも、正一郎の近辺の者達はみな、明治政府で実権を握る、かつての
長州藩士たちに直訴し、何かしらの援助をしてもらったらどうだとしきりに進言したが、正一郎は一向に耳を貸そうとはしなかった。
正一郎にしてみれば、あの頃の自分の行為は、維新が成立した際は未来の新政府に表彰してもらおうとか、歴史に名を残そうなどという野心の
為に行っていたものではなく、全ては、自分の理想のためだった。
夢の実現のため、あの男に賭けたのだ。
正一郎は今一度思う。私はまったく、後悔していないと。
男が始めて白石邸を訪問したのは、日差しの強い頃だった。その頃の白石家は長州随一の大地主であり、数々の維新志士達が白石家の
門を叩いていた。正一郎は学問が好きで、中でも平田国学に傾倒していたこともあり、常日頃王政復古を夢見ていたのだが、ついに自身の夢を実現
してくれるであろう人物と出会ったのだと思った。正一郎はその日の夜、興奮し中々眠れなかったことを覚えている。
正一郎が「この人の為なら家財を投げ打ってもいい」と、真剣に願ったその男・高杉晋作は、初め正一郎を「白石殿」と呼んでいた。
それが何度も白石家の門を叩くたび、「白石殿」から殿が抜け、「白石さん」にに変わり、最後の頃には高杉はふざけて、
「白石先生」などと呼ぶこともあった。それは、正一郎が平田国学に並々ならぬ情熱を注いでいるのを見た高杉が、
「平田国学を論じさせれば、あなたの右に出る者おらんじゃろうな」
と正一郎の勤勉ぶりに関心したことに端を発しているのだが、彼が何か頼みごとをする際は、決まって甘えた口ぶりで「白石先生」と呼んだので、
冗談やからかいの意味も十分に含んでいる、正一郎にとってはほとんど気恥ずかしいだけの愛称であった。
正一郎は高杉が「先生」と呼ぶたび、「その呼び方はお止め下さい。私は先生と呼んで頂けるほどの知識などない」と眉を寄せたが、
高杉はただおかしそうに笑っているだけで、彼特有のからかいを、生涯止めようとはしなかった。
誰よりも正一郎の功績を認めていた高杉は当時、正一郎を士分に取り立てるという運動も行ってくれたのだが、正一郎にしてみれば
まさかそんなことを望んでいたわけでは決してないので、口下手で照れ屋な高杉の精一杯の心遣いだということをわかっていながら、
「私は武士になりたくてあなたを応援しているわけではない」
と、静かに告げた。その時、高杉が作った生真面目な表情を、正一郎は今でもはっきりと覚えている。
高杉は奇兵隊結成の際の資金援助をはじめ、愛妾の世話や地方への逃亡資金、馬関へやって来た妻と母の部屋の手配、その他諸々など、
細かなところまで正一郎に依頼し、頼っていた。正一郎はその全てを快諾し、何かに付けて世話を焼いたが、家族はどう思っていただろう。
正一郎が蔵を開け、高杉に金を提供するたび、妻は「また高杉さんですか」と苦い顔をしていたから、当時から良くは思っていなかったのかもしれない。
しかし、その時期の正一郎にとっては、家族の機嫌より何より、高杉の願望を叶えてやるということが最優先だった。
「そこまで高杉さんに肩入れする理由は何ですか」
と、妻に、非難めいた質問を投げかけられたこともあった。我が家は身を傾けるほど高杉に投資しているが、何か見返りはあるのかと。
見返りなど、と、正一郎は笑う。
そんなことを考えていたら、あの人について行くことは出来ないだろう。高杉は正一郎が今まで出会ったどの志士よりも勇敢で
突飛で破天荒な男だったが、正一郎が知っているどの男よりも繊細で脆い人だった。
正一郎が見返りを求め、欲に囚われて彼に尽くしていたとしたら、高杉はその過敏な神経でもって瞬時に正一郎の意図を悟り、
離れていったに違いない。高杉は今、既に過去の人物となっているが。
高杉がもし生きていたとしても、権謀や策略の嫌いな男だったから、今の政府には到底肌が合わず、隠居していたのではないだろうか。
そう思うと、彼は死ぬべくして死んだのだと、正一郎は思うのだ。
高杉がその日、ほろ酔いの顔を上気させて、
「白石さん、僕はここに、梅の花が欲しいな」
と言ったのは、雪の降る真冬のことだった。
障子の向こうの庭をちらりと見、まだ日の出ている時間から酒を飲んでいた高杉は、微笑してそう言った。
「梅の花、ですか」
「ああ。僕は何より梅が好きじゃ。それにほら、なんとなく、この庭は寂しい」
高杉が赤く染まった頬を庭に向ける。灯篭の上に雪が降り積もり、景色は白く霞んで見えた。
「そういえば、変名も確か」
「そう、谷梅之助」
高杉は言って、くすりと笑う。正一郎はしんしんと降り積もる雪に覆われた美しい庭を眺め、梅か、と一言呟いた。
「まだ冬ですから。もう少しお待ちいただければ」
「雪の中の梅の木も、また一献」
高杉は愛用の瓢箪を目の前に掲げて言い、正一郎の猪口に酒を注いだ。正一郎は思わず苦笑する。
「高杉殿には適いませんな。明日にでも梅の木を探してきましょう」
正一郎の返答に満足したのか、高杉は酒を煽り、静かに雪の降る庭を見つめた。こうして二人で酒を酌み交わしていると、
世間で「攘夷だ、勤皇だ」と騒がれていることすら、遠い昔の出来事のように思える。目の前の華奢な男が幕府から桂小五郎と並び、
長州の危険人物として命を狙われている高杉晋作だということですら、にわかに信じられなくなってしまう。
「僕は逃げる。藩の馬鹿どもが僕を殺すと息巻いておるそうじゃ。こういう時は、逃げるに限る」
「どこへ行かれるのです」
「さあ、どこへ行こうかな」
他人事のように呑気に言う高杉に、正一郎は穏やかな顔で笑った。
「高杉さん、あなたに死んでもらっては困ります。今までの私の投資が、全て水の泡になる」
「そうじゃな。うん、そうだ。では、明日、梅の木が約束通りここへ来たら」
僕は必ず生きて、ここへ帰って来ましょう。
高杉はいたずらそうな笑みを浮かべて、正一郎の目を見据えた。
「ご自分の命を、梅の木にお賭けになるのですか」
「そうじゃ。粋じゃろう」
高杉は笑っている。瓢箪の酒を、ぐいと飲みながら。
「あなたには本当にいつも、困らされてばかりだ」
正一郎が眉を寄せて微笑むと、高杉は恐ろしいほどに優しく、そして憎らしい笑みを浮かべた。
「僕はあなたを困らせ、あなたは僕の願いを叶えるのが、天命じゃ」
天命。つまりは、天からのお告げであり、逆らうことの出来ない摂理であり、運命であり。
抜け抜けとそんなことを言う高杉に、腹が立ったり呆れるなどということはまったくなく、この、自分よりはるかに年若い青年の
願いや夢や理想を、何でも叶え何でも与えて、共に未来へと連れて行って欲しいと、正一郎は思った。
あなたは高杉に惚れこんでいる。
そう言ったのは、どこの誰だったか。正一郎は高杉に夢を託し、高杉は正一郎の夢を叶える。
正一郎は高杉の願望を叶えてやることで、共に乱世を戦っているような気持ちになっていたし、二人で理想に向かい飛んでいるような
高揚感を味わうことが出来た。正一郎は、庶民の身ではあったけれど、何より今の時代を変えたいと、変わって欲しいと願っていたし、
「幕府」というとてつもない巨大機関を倒すには、高杉のような人を惹き付けるエネルギーを持った人物が先導しないことには
到底叶わないのだということも知っていた。正一郎にとって、高杉は英雄であり、夢の象徴であり、恋うべき人物でもあったのだ。
まるで、こいをしているような。
ふと、正一郎はそんなことを思い、酒が回り、既に寝入っている高杉の顔を見た。雪は、まだ降り注いでいる。
高杉がわずか80人の人数でクーデターを起こした功山寺決起の報を聞いた時は、思わず涙を流してしまうほど、正一郎は昂ぶった。
それからの高杉の怒涛の進軍は、今では下関を越えて人々の語り草になるほど有名であり、正一郎も今更ながら「長州男児の肝っ玉をお目にかける」という
言葉を、高杉の張りのある声を思い出し頭の中で反芻し、あの時代に思いを馳せるのだ。
しかし、高杉の容態が明らかに悪化し、死への道を進んだのも、思えばあの時期だったのだろう。
初めて会った時から、高杉の体は健康とは言い難いものであったし、正一郎と会談をする際も小さな咳を何度もしていた。
正一郎が「医者に診ていただいたほうが」と言うたび、高杉は「心配性じゃな。ただの風邪じゃ」と笑ったが、幕府と戦争をしていた
あの季節、高杉の体は既に壊れかけていたのだろう。真っ青な顔で白石邸に転がり込み、座敷に通されるやいなや昏倒してしまった
ことを、今でもありありと思い出す。普段から痩せていた高杉の体は、夜着一枚になるとその細さが強調され、骨の浮き出た膝や
筋張った腕を見るのはなんとも辛いことだった。高熱を出した高杉は、何事かしきりに呟いていたが、何を言っていたのかはわからない。
長州新政府の大功労者として奇兵隊士はもちろんのこと、若い長州藩士や他藩の勤皇志士達から絶大なる信頼と尊敬を得ていた高杉だが、
所詮は未だ一家の主ではない単なる書生の身であったので、その高杉に代わり正一郎が面倒をみているという形になっていた高杉の愛人・おうのも、
連日連夜つきっきりで高杉の看病をしていたが、ついには立ち上がることも困難になり、ほどなく療養生活を始めた。
枯葉の舞う、美しい季節だった。
正一郎が高杉の眠る部屋へ訪れたのは、まだ日の高い頃のこと。
高杉は横になりながら庭の梅の木を眺めている。正一郎は高杉の足元に正座し、「ご機嫌はどうですか」と笑った。
「僕は、近々ここを出ますよ」
高杉は庭に目をやったまま、そう言う。正一郎は、はっとした。
「気を遣わないで下さい。いつまでも、ここにいても」
そう言う正一郎に、高杉は痩せた顔を向け、
「この病は、人に移る」
と小さな声で言った。正一郎は、息が詰まる。軍神と崇められた高杉が、こんな、か細い声を出すなんて。
「それに、もう、あなたにしてもらうことはない」
正一郎は声を失った。高杉は暗に、自分はもう何も出来ないと、そう言っている。
高杉と出会ってから、もう何年になるだろう。彼とは長い付き合いであり、一目会ったその日から、初対面とは思えない程に打ち解け、
惚れこんだ正一郎には、高杉の言わんとしていることが理解出来てしまい、それがまた、悲しくもあった。
「白石殿」
ああ、もう終わりだ。正一郎は思う。正一郎の夢は、理想は、彼と共に戦い共に飛んだあの時間は、既に、終わりを告げている。
枯葉を付けた梅の木を見ていた高杉は、にわかに正一郎へ視線を寄こした。
「あなたの今までのご恩、僕は決して忘れません」
こんな風に感謝の意を述べる高杉など、私は知らない。こんな風に優しく穏やかに笑う高杉を、私は知らない。
そんな言葉が聞きたいわけではないのです。
正一郎は胸の中で必死にそう訴えたが、高杉があまりにゆったりと静かに笑っているので、正一郎はそれ以上、何も言えなかった。
あのどこまでも放漫で、我がままな男がこんなことを言うなんて、もう終わりだと、正一郎は思った。
高杉と歩んだ夢の時間は、終わりを告げている。彼の舞台は、既に幕を閉じている。
今まで、最前列の席で彼の芝居を観劇し、そして彼の舞台を後方から作り上げてきた正一郎だったが、劇の終了を実感し自身もまた、幕を下ろそうと決意した。
何故なら自分は、高杉晋作という役者に全てを賭けたのだ。彼が退くときが、正一郎の舞台を去る時でもあった。
共に理想への道を突き進んだ幸福な時は、もう、終わっている。
それはまるで、こいのような。
正一郎は小さな庭に咲く梅の花の、その瑞々しい赤の、美しい香りの、凛とした佇まいの、全てのものに目を向けて、過去を思い出しそっと微笑む。
あなたの夢を叶えることが、私の夢でもあったのです。
正一郎は思いを馳せながら、ゆっくりと立ち上がった。故郷の空は、今もこんなにも透き通り、どこまでも続いている。
高杉と飛んだ空も、どこまでも美しく、どこまでも続いていた。彼の手にかかれば叶わぬものはないと、そう信じていた。
そう、それはまるで、こいのような。
end
白石おじ様と晋作さん。甘ったれ晋作さんです。白石さんも大好きだ!