ボーイズドントクライ
東一と、かつての自分の名前をつけた息子は、すやすやと眠っている。
東一の寝顔を幸せそうに見やる父・小忠太と、母・道。晋作の父母は大層優しい人なので
子供がたとえ女児でも嬉しがったであろうが、男子であるとわかった時は、さすがに諸手を挙げて
「ようやった」
と、妻である雅子の手を何度も握った。雅子はその度に、胸の最大の痞えが取れたような顔をして、
小さく頷き笑顔を見せたのだった。晋作は、庭を見ている。
穏やかで暖かい風が、彼の黒い髪の毛を揺らした。障子を一枚隔てた向こう側に、幸せを絵に描いたかのような
家族の顔が並んでいる。親戚も知り合いも皆口々に、「おめでとうございます」と祝辞の弁を述べた。
その都度小忠太などは深々と頭を下げていたが、東一の父親である晋作は、息子の顔をちらと見たなり外へ出てしまった。
雅子の目が、晋作の痩せた背中を追う。
嬉しくないわけではない。むしろ、これで立派に親孝行を勤めることができたかと思うと、心底ほっとしたくらいである。
大人しく眠る東一を初めて目にした時などは、雅子の小さな手を強く握り締めたものだ。
それが親心からくるものなのか、それとも子孫を残し、自身に課せられた高杉家の命題をやっと遂げることが出来た
という安心感からなのか、あの瞬間の気持ちはどちらであったであろう。少なくとも今は、早く早く、同志の元へ駆けつけたくて
たまらなかった。息子の庇護するべき幼い顔を、手を、足を、一つ一つ見ていると、国の行く末を案じる仲間の影が
晋作の中から消えてしまいそうになるので、晋作はただ、一刻も早く高杉家を後にしたかった。
そっと消えた晋作を追い、小忠太は家を出た。代々実直で真面目な高杉家の人々において、何事にも反発し規制の枠から
はみ出したがるじゃじゃ馬な息子の足取りが、心なしか急いでいることを知り、小忠太は大きな声を上げた。
「晋作!」
ああ、父だ。もう見つかった。
父の声であるならば、素直に従うしかないのが晋作である。これが赤の他人なら、形振り構わず振り切って、走って逃げた
であろうに。渋々といった体で立ち止まる息子の顔を、小忠太は真っ直ぐに見た。
「どこへ行くんじゃ」
晋作は黙る。まさか、「今から将軍を倒しに行きます」などと言えるはずがなかった。そんなことを言おうものなら、信心深い
小忠太のことだ、何を言い出すかわからない。
晋作は一つ息を吸い、顎を上げた。遠くで、赤ん坊の泣き声が聞こえる。東一が目を覚ましたのであろうか。
考えてみれば、自分は目を開けた息子の顔を見、少しでも抱きかかえたことがあったか。
小さなぬくもりを、自身の胸に感じたことは。
晋作が見た東一は、静かに息をしながら、まるで人形のように眠っている姿だけなのだ。
あまりに小さくて頼りなくて、壊れてしまいそうな。その儚さは、嫁いできたばかりの雅子の背中を思い出させた。
東一が物心ついた頃、自分はこの世にはいないだろう。晋作は何故か、確信めいた思いでそう考えていた。
成長した東一は、家にほとんど寄り付かず、顔すらも覚えていない父親のことをどう思うのであろう。
憎むだろうか、それとも。
「父上」
晋作は、長年惜しみない愛情を注いでくれた父の顔を、久しぶりに真正面から見据えた。
皺が増えた。髪の毛も白くなった。背も、小さくなった。
父は愚直なまでに真面目で堅く、晋作が今抱いている革命論など、聞けばとんでもないと一喝するに違いない。
晋作と小忠太は、これが親子かと思う程、性格も価値観も物の見方、考え方に至るまで遠くかけ離れていた。
京や江戸で華々しく活躍する親友達のことを思うと、そんな父親や家柄と言うものがまるで重い足枷のように思えてくる。
だが、一方で晋作は、父も母も大好きなのだ。
東一には嫌われるじゃろう。ふとそんなことを思い、晋作はおかしくなった。「国のために父は家を捨てたのだ」と言えば
多少聞こえはいいが、果たしてそれだけなのかどうか。
「僕は行きます。お家に背くことになるかもしれません。生きて帰れないやもしれません。それでも」
行きますと、晋作は強い口調で言った。
当然反対するだろうと思っていた父は、ただ黙って、晋作の顔を見ている。
「もし僕が囚われ、死罪になるようなことがあったら」
東一を。そう言いかけた晋作の口を、枯れ木のような手で覆い、小忠太は少し笑った。
「その時は、私と道で命を絶って、お前を、東一を生かすよう説得して回ろう」
何でもないというように小忠太はそう言い、むしろ幸せそうに言うので、晋作は色の薄い唇を引き結んだ。
息子のために死ぬという父と、国のために死のうという僕と。
どちらが偉いのか、どちらが正しいのか。恐らく、雅子や母親の道から見れば、小忠太のような男は理想の父であり夫
なのだろうし、反対に国のために命がけで働くことこそ男の使命だと捉えている久坂などからすれば、妻や息子に
かまけてのうのうと家庭を築き上げる晋作など、「まったくお前らしくない」ということになるのであろう。
晋作に息子が生まれ、跡取りが出来たことで一番胸を撫で下ろしたのは、もしかすると小忠太かもしれなかった。
それほど、小忠太は高杉家というものに誇りを持ち、そして大切に思っている。だからこそ、晋作はいつでも、人一倍
の
愛情を受けて育ってきた。そんな高杉家を、今、捨て去ろうとしている。
「生きて帰って来なさい」
静かにそう言う小忠太の目は、幼い頃見たあの優しく厳しく、愛に溢れた目であった。
白髪も増え、皺も増え、声も、若々しさを失ったけれど。目だけはあの頃と決して変わってはいなかった。
風が砂埃を舞い上げて、晋作の前でくるくると踊った。赤ん坊の泣き声は、もうやんでいる。
いつまでも息子の背中を見送る父を顧みることなく、晋作は歩を進めた。
地面を踏みしめる度に、思い出が蘇ってくる。そんな晋作が一番に思い出したことは、小さな頃からいつだって、
父の前では素直でいたかったのだということだった。
生きて帰って来いと言った父に、素直に「はい」と言えなかった自分に苦笑し、晋作はただ、どこまでも続く道を歩いた。
end
高杉家大好き!小忠太パパと晋作さん、東一くんのお話でした。結局、小忠太パパは晋作には甘いのねということです。