バラ色の明日



瞼の上が、白く光っている。
深い溜息をついて、冷えた布団の中で伸びを一つした。木戸は、端正な白い顔を歪めてゆっくりと目を開ける。
毎日、「ああ、また朝が来た」と思い、木戸は部屋の天井を見上げた。
これから始まる憂鬱な一日を思うと、どうしても起き上がろうという気になれないのだ。
木戸は幾分白くなった髪の毛を指で梳き、目を覆った。
また、一日が始まる。

昨夜飲みかけてそのまま放っておいた緑茶は、冬の冷気ですっかり冷えていた。
冷たい緑茶を一気に飲み干し、木戸は本や書類の散乱した古い机の前に腰掛ける。仕事は、山積みである。
しかし、何をする気にもなれない。持病である胃が痛み出し、夜から何も食べていないので胃の中は空っぽなはず
なのであるが、しかし木戸は何も食べる気にはなれなかった。階下でざわざわと人の動き回る音が聞こえるが、
木戸の部屋は奇妙なほどしんとしている。締め切った窓のせいで、外の天気も、空気もまったくわからなかった。
このまま目を閉じ再度開いた時に、世界が闇であったなら。
そんなどうしようもないことを考えて、木戸は腕を組んだ。
いつから、私の世界は色を失ったのか。
木戸の中で安らげる時間といえば、一日が終わる静かな夜であるのだが、布団の中に入るともう、
明日から始まる未来のことを考えて、深い悲しみに襲われる。終わりたいと、常に思う。
昔は、といっても、木戸のいう昔とはほんの10数年前のことであるのだが、未来に絶望を抱くことなどなかった。
木戸の未来は希望と光に満ちていたし、木戸がこれから創っていく日本という国は、欧米列強に肩を並べる、
全く新しい法律によって裁かれる国であるはずだった。木戸の中では、人々は笑顔に満ち、そして凛として美しかった。
数々の欲も、謀略も、木戸の描く新しい日本政府にはあってはならないものだった。
しかし、現実はそう、上手くはいかない。
木戸は疲れていた。自分を巡る人間の欲や、情や、憎しみ、悲しみ、全てのものに距離を置いてしまいたかった。
最近、木戸は過去のことばかりを思い出す。未来に思いを馳せていた、あの頃を。
あの頃のことを思い出すと、常に一つの鮮やかな色が目の前に広がる。燃えるような赤なようで、深い闇の色でもある。
そんな不思議な色を纏った男は、木戸が桂と名乗っていたあの頃、その短い人生を激しく燃やすかのように生き抜き、
そして呆気なく死んでいった。男は、奔放で豪胆で突拍子もなく、それから人知れず愚かであった。
木戸は、男の愚かな部分、小さく繊細な部分を嘲笑してもいたし、たまらなく好きでもあった。
男はいつでも木戸の抱く悲しみを刺激し、攻撃し、そして笑い飛ばし木戸を明るくさせた。
男が死の床についた時、木戸はただ、男を無念だと、そう思った。
「私には、やりたいことが、やらなければならないことがまだまだたくさんある。お前もそうだろう?」
痩せていく男の頬を見ながら、木戸は心の中だけでそっと呟いた。男は、ただ笑っている。
木戸は今、男の青い死に顔を思い浮かべながら、羨ましいと、そう思う。
あの時、私も死んでいればよかったのだ。未来に希望を抱いたまま、鮮やかな明日に焦がれたまま、消えてしまえばよかった。
そうであったなら、こんな絶望も、悲しみも、知らずにすんだというのに。
あの頃共に闘った戦友は、ほとんどあの世へ旅立ってしまった。生きているかつての同胞たちは、今は木戸の前にはいない。
木戸が過去に思いを馳せる時、伊藤は、井上は、久坂は、大村は、そして、高杉は。
あの時、もう死んでいただろうか?あいつはどこにいった、あいつはまだ生きていたか。
記憶が曖昧になり、木戸は目を閉じる。様々な懐かしい顔が浮かぶたび、木戸はかみ締めるかのようにゆっくりと租借し、
青や赤、緑、黄色、紫、色とりどりの色彩を思うのだ。あの頃の毎日は、未来は、希望に満ちていた。
木戸の未来は、それこそ鮮やかなあの男の、高杉の持つ色だった。

コンコンと、ノックの音がする。
「木戸さん。生きてますね!?」
切羽詰った若い声が聞こえ、木戸は現実に引き戻される。
木製のドアが開き、光が差し込むと共に「今日」という日がこれから始まるのだと告げていた。
瑞々しい声と、精気に満ちた顔を持つ若い居候が、「さぁ、朝食ですよ。いっぱい食べて、早く下へ来て下さい」と、
早口で一気に捲くし立てた。木戸は「ああ」と、低い声で返事をしつつ、ゆっくりと席を立つ。
「今日は外に出ましょう。清清しくて、きれいな朝です」
青年の言う「朝」は、光に満ち希望で溢れていた。木戸は青年の後ろを歩きながら、ぴんと伸びた背中と
黒々とした頭髪を眺め、彼の前途が健やかであるように祈った。
「そうだ、庭に、椿が咲いてますよ」
目を輝かせて笑い、振り向いた青年に、木戸は「そうか」と言い、何日ぶりかに笑顔を浮かべた。
私にはもう、何をすることもできないが。
全てを投げ出したい木戸を繋ぎ止めるのは、引き止めるのは、いつもこの、爽やかで明るい青年の未来だった。
木戸を思う、様々な人の思いだった。
ふと、木戸はそんな当たり前のことを思い出し、そしてもはや、何もすることのできない自分が最後にやるべき仕事を
思い、青年のバラ色の明日のために、大きな希望のために、輝く未来のために、木戸は最後、穏やかに笑ったのだった。




end




木戸さんが好きです。アンニュイでメランコリーで美男子な木戸さんが好きです。