愛がなくちゃね
当時の久坂玄瑞は、ただひたすらに前を見ていた。
彼の目指す未来は崇高できらきらと光っていて、それに向かうためにはどんな努力も苦労も惜しまない覚悟であったし、
そんな気高い理想を現実のものとするためには、他所事に心を砕き道草を食う時間など彼には少しもなかったのである。
彼は誰よりも高い志を持っていたけれど、果たして自分は何をすればいいのか、何を学べばいいのか、若い彼には
わからないでいた。しかし、その思いを、長年抱き続けていた考えを、明確な線で描くことが出来たのは、
ひとえに師である吉田松陰と出会ったからであると彼は信じている。松陰は様々なことを玄瑞に教え、また、玄瑞も
松陰に多大な影響を与えた。松陰の口から紡ぎだされる言葉は、他の誰が言うものよりも瑞々しく、玄瑞の心と体に
染みわたった。松陰と出会い教えを受けたことで、玄瑞の、彼自身が描く未来は、何よりも素晴らしいものとなったのだ。
彼は師の教えを忠実に守り実践していくために、進むべき道以外のもの、例えば彼の若い妻であったり塾の仲間たちを、
その言葉が持つ以上のものとして見る事をしなかった。彼にとって、妻は妻以外の何者でもなく、友人もまたしかりであった。
そして、そんな玄瑞の考えは、時として様々な思惑を呼ぶ。
今日も、また。
夜は更け、先ほどまで座敷で舞い踊っていた美しい芸子も引き揚げてしまい、辺りはしんとしていた。
明日江戸へ向かう玄瑞を送るために、塾の仲間たちが開いてくれた宴会は、名目としては「玄瑞を送る」という
ものであったが、彼ら自身がただ騒ぎ、酒を飲みたかっただけなのかもしれなかった。
主役である玄瑞はというと、芸子たちにせがまれて自慢の歌を披露したほかは、ただ淡々と酒を煽っていた。
彼の頭の中は、明日から始まる新しい未来のことでいっぱいだったのだ。
「文さんも、寂しいじゃろうのう」
にこにこと人の良さそうな笑みをたたえながら、それでいて玄瑞の年若い妻のことを思い気の毒そうに眉をひそめ、
塾の友人の中でも特に親しかった入江はそう言った。玄瑞は、ただ目だけで笑っている。
「お前も、明日から張りがなくなるじゃろう。なぁ、高杉」
片方の唇を吊り上げて笑い、吉田はそう言った。話を振られた本人である高杉はふんと鼻を鳴らし、
「僕も必ず行く。こいつは、ちょっと早く出発するだけじゃ」
と言って顔を背けた。玄瑞は親友の言葉を聞き、「うん、そうしろ。早く来い」と言った。高杉は、にこりともしない。
いつの間にか四人だけとなった座敷で、仲間は静かに酒を飲んだ。玄瑞の心がすでに江戸へ飛んでいることを、
仲間は気付いているのかいないのか。ただ、高杉は時折玄瑞の聡明そうな横顔を見て、小さく息を吐いた。
彼に気付かれないように、こっそりと。そうして、刻々と時は過ぎた。
文に見送られ、玄瑞は家を出た。清清しい朝で、空気が澄んでいる。玄瑞の未来は明るい。そのためか、彼は妻が
無理に笑顔を作って見送りに出て来たことも、朝食に玄瑞の好物を出したことも、気にもとめなかったのだ。
文は、玄瑞の背中が朝霧に紛れて消えるまで、じっと見つめて立っていた。玄瑞が振り返り、笑顔を見せてくれることを
文は小さな胸の中で密かに祈ったが、その願いが叶うことはなかった。
道すがら、玄瑞はふと立ち止まった。親友が、向こうから歩いてくる。玄瑞は明るい顔でにこりと笑った。
「どうしたんじゃ、こんな早くに」
玄瑞がそう言うと、親友は黙って視線を反らした。
「お前こそ、何でこんな早くに」
少し、非難を含んだ口調で言うので、玄瑞は不思議な顔をし「いや、いてもたってもいられなくなったんじゃ」と言って笑った。
「おい、僕も、必ず行くぞ」
昨日の夜と同じことを言い、親友は強く、玄瑞を睨む。玄瑞は、柔軟な思考を持ち、玄瑞に負けずとも劣らない熱情を身に抱いた
意地っ張りな親友が、同じ志を持ち同じ道を歩いてくれればこれほど嬉しいことはないと思っていたので、明るい笑顔を見せた。
「そうじゃ、早く来い。それで、一緒に国を変えるんじゃ」
彼の笑顔には答えずに、親友はただ強い目で睨むばかりだったので、玄瑞は少し、苦笑した。
二人は歩きながら、世間話をした。親友は黙って頷くばかりで、どこか機嫌でも悪いのか、眉を寄せ、唇を引き結んでいる。
玄瑞は未来を語った。長州はこれからどうするべきか、自分たちは何をするべきか、そして、日本はどうなるのか。
いつもは共に未来を熱く語り、時には激しく口論さえする親友が、今日は大人しく話を聞いている。
玄瑞には、親友の胸中がわからない。
「お前は、先のことばかりじゃな」
親友がやっと声を出したかと思えば、その声は聞いたこともないような低く暗いものだったので、玄瑞は彼の横顔を見る。
「僕は、お前がいなくとも何も変わりはしないが」
親友はそう言ったまま、薄い唇をぎゅっと噛んだ。何かを押し殺しているかのような、険しい顔をして。
「時々、君はわからんことを言うな」
なぁ、高杉。玄瑞は、笑った。秋の風のように、爽やかに笑った。
その時、高杉の目に悲しみが宿ったのを発見し、玄瑞は息を詰める。高杉は、相変わらず眉間に皺を寄せ、ふと、下を向いた。
玄瑞には、親友の悲しみの理由がわからない。たまに、彼は親友がわからなくなるのだ。
こうして、無言で俯く時や、吊り上った目を背ける時や、小さな爪を齧る時など。
親友が、一体何を考え、何を思っているのか、玄瑞にはわからない。そうだ、文も、時々こういう顔をした。
先生はいろいろなことを教えてくれたけれど、親友や妻の心の機微を、気持ちの行方を教えてくれはしなかった。
何故、妻がぎゅっと、小さな手を握るのか。何故、親友が息を呑むのか。
妻は妻であり、友人は友人であり、共に夢を語り、理想へと突き進むための同志であり、それ以上でもそれ以下でもない。
それでは、何がいけないのか。それ以上の意味を持たせることに、何か利益でもあるというのか。
きっと、親友は僕に何かを伝えたがっている。しかし、玄瑞には親友の瞳に映る悲しみの理由がわからない。
もし、理解できたなら。もし、言うべき言葉を見つけることができたなら。
先生、僕にはわからんのです。
ただ、親友のそんな顔はもう二度と見たくないと思い、しかしそのために今、何を言えばいいのか何をすればいいのか
思考を巡らせて考えたけれど、やっぱり答えは出なかったので、玄瑞は立ち止まり空を見上げた。
抜けるような青空の下、玄瑞は初めて途方に暮れた。
end
愛を知らない玄瑞さん。本当はこんなこと、ないと思いますが。少し久坂←高杉風味になってしまいました…あれ?